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中国語では「志願者」という。英語の「ボランティア」の訳である。中国の各地のさまざまな分野で、多くのボランティアがいま、生き生きと活動を始めた。 彼らの行為は無償で、自発的なものだ。弱者へのおもいやりや環境の保護などがその出発点になっている。市場経済化でとかくギスギスしがちな人々の心に、温かい光を呼び戻す作用を果たしつつある。 中国でボランティアの輪が広がり始めたのは十数年前からである。ボランティア活動が国際的に広がる中で、中国もその影響を受けた。彼らは民政部や共産主義青年団と協力して、社会の隅々で、草の根の活動を広げている。 現在、中国のボランティアの総数はなんと8000万人以上。人口の約7%にのぼる。 「社区」支えるボランティアたち
「遠くの親類より近くの他人」という諺は、中国にも日本にもある。天津市和平区新興街にある朝陽里社区(コミュニティー)に住んでいた郭錦華のおばさんは、近所の住む人々がいろいろ面倒をみてくれたので、その温かさを十分に感じていたことだろう。 郭さんには子どもがいなかった。連添いが世を去ったあとは一人で暮らしていたが、身体は病弱で、生活はとても大変だった。 そこで、同じ朝陽里に住む張家蘭さんが自発的にこの老人の面倒を無償でみることを引き受けた。彼女はいつも郭さんのために食事を作り、洗濯し、練炭を買い、買い物に行くのだった。さらに進んで郭さんを医者にみせ、薬をもらって来た。こうして張さんは、雨が降ろうと風が吹こうと老人の面倒を見て18年がたった。 郭さんは臨終を迎えた。郭さんは、自分の住んでいる部屋を張さんにあげると言い出した。張さんはこれをきっぱりと断ってこう言った。「私があなたの面倒を見たのは何のためでもありません。ただあなたが、晩年を幸せに暮らせればよいと思っただけです」
張さんは、新興街にある社区のボランティア協会に属する普通のボランティアである。この十数年、彼女は無償で社区の住民を手助けし、各種の文化スポーツ活動を組織し、住民の文化生活を豊かなものにするよう努めてきた。 2002年初め、一人の産婦が手術を受けるため、Rh(−)のAB型の血液が急に必要になった。この血液は一万人に一人という珍しい型で、張さんはたまたまこの型だった。 新興街のボランティア協会は、中国で最初のボランティア組織である。1988年7月、社区住民が生活面で困難にぶつかったとき、彼らを助け、解決するために朝陽里社区に住む13人のおじさん、おばさんたちが、自ら進んで困難を抱える13戸の独居老人、現役軍人の家族や革命烈士の遺族の生活面でのサービスを請負った。これが雛型となって1989年、新興街のボランティア協会が正式に発足し、会員は407人になった。 15年が過ぎた。新興街の人口は6万人以上になり、ボランティアは1万人を超した。住民サービスの内容は、当初、「練炭を買い、買い物に行き、煙突をとり付ける」というものだった。「煙突」というのは、練炭による一酸化中毒を防ぐためである。現在のサービスの内容は「仕事を斡旋し、知識を広げ、健康を維持・回復させる」になっている。
ボランティア協会は毎年初め、必ずアンケート調査を行う。これによってどのような住民の困難を急いで解決しなければならないかを知り、サービスをするボランティアの名簿を作る。 社区の各棟の入口にはすべて、この棟に住むボランティアの名前と職業、連絡先が貼り出される。住民は何か必要があれば、電話一本で助けてもらうことができる。さらに今年3月、協会は、生活に困っている人々を助けるために品物や募金を集める「愛心スーパー」を設立した。 今年3月現在、ボランティア協会が創出した職場は2700以上、就業させた失業者は約2400人。70歳以上のお年寄り6000余人の健康カードを作成し、1万人近い住民が、延べ千回以上開催された各種の知的な講座に参加し、2人の貧困学生に資金援助を行った。
馮艾さんは北京のインテリ家庭の出身。生活条件はかなり良い。1996年、彼女は上海の復旦大学の社会学部に合格した。2000年に大学を卒業するとき、馮さんは、大学院に進学する試験免除の資格を得た。しかし彼女はあえて一年留年する道を選んだ。そして中国青年ボランティアの「貧困扶助リレー計画」に参加し、寧夏回族自治区の西吉県にある白崖中学に行き、「支教」(支援教員)として一年間働いた。 西吉県は山間部にあって、国が認定した貧困県である。かつては国連から「人類の生存に適さない地区」と認定されたこともある。村民の年間平均収入は300元(約4500円)に達せず、子どもたちの大多数は自分の村から外に出たことがない。収入があまりに低いうえ、封建的な思想に束縛されて、多くの家では家長が子どもを学校に行かせたがらない。また学生の多くは学費が払えないため、学校をやめなければならない苦境にあった。 そこで馮さんは、放課後の時間を使って、受け持ちのクラスの子どもたち四十数人の家を、一軒一軒訪問し、家長に子どもを学校に通わせるよう説得した。馮さんや他の先生の努力で、六人の生徒が大学に合格した。これまでは一人受かったのが最高だった。 子どもたちをさらに援助するために、馮さんは北京や上海に帰るたびに、あちこち奔走し、友人たちから、学校をやめるかも知れない子どもたちへ資金援助をしてもらった。北方交通大学で、「支教」活動について講演したとき、馮さんは6人の、とくに貧しい学生の資料を持っていったが、たちまち大学生から資金援助の約束を取り付けることができた。 同時に白崖中学に二十数台のパソコンが寄贈され、白崖中学は西吉県で最初のインターネットに接続できる学校になった。現在、「インターネットって、魚を捕る網なの、それとも鳥を捕る網なの?」と聞く人は、白崖中学にはいなくなった。 一年後、馮さんは復旦大学に復帰し、また自分の学業を続けた。2003年6月、西部大開発計画に進んで参加する大学生のボランティア募集が始まったことを知ると、彼女は直ちにこれに応募した。馮さんは大学院の修士課程の院生で、募集の対象範囲に入らなかったが、いろいろ努力して、最終的に参加の許可を得た。そしてこの年の九月、彼女は海抜三千メートルを超す雲南省の寧ロウ県站河郷中学に赴き、2回目の「支教」の生活を始めた。 馮さんのように西部地域に行って「支教」活動に携わるボランティアは多い。1996年に青年の貧困扶助リレー計画が実施されて以来、リレーのバトンを受け継ぐ青年は、当初の22人から1万人以上に増加した。また活動範囲も当初の一カ所の試験的な地点から300余の貧困県に拡大した。 西部への大学生ボランティア計画が始まると、約4万3000人が応募した。今年4月に第2次募集が行われ、今年卒業する5万人の大学生が応募し、募集計画の6000人を遥かに上回った。現在、1万余人のボランティアが約300の貧困県で、教育や医療、科学技術などの面で貧困扶助の仕事に汗を流している。
19歳の時から30歳になるまで、葉欖さんは最も貴重な青春を「緑」に捧げた。彼はたった一人で野山を踏破し、川や沼を渡って、長く苦しい「環境保護の旅」を続けてきたのだった。 葉さんの本名は葉春東である。河南省蓐川県の鄙びた村の出身である。 少年時代に父を亡くした彼は、大学に行くチャンスがなかった。後に郷(県の下の行政単位)の食糧管理所で仕事をした。 1993年、葉さんは「希望の工程」に関する報道を見た。「希望の工程」とは、学校に行けない貧困地域の子どもたちを支援するプロジェクトである。子どもたちが知識を渇望する目の輝きに彼は打たれた。そこで彼は決然として職を辞し、「希望の工程」の宣伝員になった。そして自分の名前も、「葉欖」に変えた。それには「緑、希望、平和」という意味が込められている。 「希望の工程」を宣伝する旅の途中、彼は多くの地方で生態系が破壊され、自然環境が悪化しているのを目撃し、心が痛んだ。 1997年、葉さんは「中国緑色希望行」という活動を始めた。彼はたった一人、自転車に乗り、学校を一校一校巡って歩いた。環境保護の知識を広めるため、彼は多くの環境保護の書籍を読破し、環境保護の漫画を集めたり、創作したりした。 行く道すがら生態系が破壊されている写真を撮り、生徒たちに、人類が環境と生態系の危機に直面していることを実物で認識させたのである。また彼は、『緑の希望』という小さな新聞を作り、毎回百部ずつ印刷し、無料で郵送した。 経費が足りないため、葉さんは汽車やバスの待合室、教室や廃屋で何回夜を過したか分からない。あるときはやむを得ず野宿をした。 海南省に行ったときには、空気銃で鳥を撃っている二人の男たちをやめさせようとして、彼らの怒りを買い、「鳥は撃たないが、おまえを撃ってやる」と突然、銃口を向けられたこともあった。それでも葉さんは辛抱強く説得し、彼らはついに空気銃の銃口を収めたのだった。 10年来、葉さんは13万キロを走破した。31の省・直轄市・自治区、1160の学校を巡った。発送した宣伝用の印刷物は30数万部、彼の講演を聴いた人は百万人を超す。
2003年3月、彼は中国の環境保護の世界で最高の賞である「第七回地球賞」の栄誉に輝いた。また今年2月には、中国青年ボランティア協会から「中国の十人の傑出した青年ボランティア」に選ばれた。 生態系の悪化にともなって、ますます多くの人々が環境保護の輪に加わってきている。1999年6月、植樹造林、砂漠の砂の制圧、水質汚染の除去、ビニールや発泡スチロールのゴミの清掃を主な活動内容とする「母なる河の保護」青年ボランティア緑の行動キャンプ計画が河北省豊寧で正式に始動した。この計画は、半年もしないうちに全国の19の省・直轄市・自治区や英仏独など12の国々や地区から千人以上のボランティアを引き寄せた。山東、重慶、吉林、内蒙古などで緑の行動キャンプの活動が展開された。
梁従誡さんの粗末な事務所には、目立つところに大きな『中国緑色版図』が掛けられている。72歳になるこの老人は、感情が高ぶるたびにこの地図の前に立つ。そして中国の東北と西北の端にある二カ所の小さな緑の塊と、こなごなになって残った緑の残片を指差しながらこうつぶやくのだ。 「森林はここしかなくなった。それに土地と水……我々にはこれしか資源が残されていない。しかもそれは、激しく消耗する方式で開発が続けられている。資源を消耗して支えられる時代はどれだけ続くだろうか。我々はこれを憂慮する意識を持たなければならない」 中国の有名な思想家、梁啓超(1873〜1929年)の孫で、中国の有名な建築家梁思成の子でもある梁さんは、歴史研究者だった。しかし20年前に環境保護学者と話し合ったことがきっかけで、環境に対する深い「憂慮」が生まれた。 1994年3月、梁さんが九カ月以上奔走した末、民間環境保護組織「自然之友」を設立した。梁さんは会長に就任した。 1980年代以後、経済の発展にともなって、中国の生態環境は第3回目の激しい破壊に遭遇した。それは巨大な人口圧力、高度成長、エネルギー消費の大きい、汚染がひどい工業化など、さまざまな要素によって引き起こされたものだった。 しかし人々の環境保護の意識はまだ薄かった。1993年冬のある晩、梁さんらは北京大学に行き、環境保護の講座を開いたが、聴衆は30人足らずだった。多くの人は、環境保護は政府の仕事だと思っていた。そこで梁さんは、社会から環境教育を始めることを決めた。青少年に環境保護に関する知識を授け、緑の意識を広めることを「自然之友」の主要な仕事としたのである。 「自然之友」は成立して一年足らずのうちに、環境保護事業に対する傑出した貢献によって、日本の『毎日新聞』と韓国の『朝鮮日報』が設立した「アジア環境賞」を獲得し、アジアで初めてこの賞をもらった民間の環境保護団体となった。 雲南に棲む「オ瘠璢N猴」は、中国特有のサルで、世界的な希少動物であり、絶滅危惧種である。1995年12月、「オ瘠璢N猴」が生息する雲南西北部の原始林が壊滅的な被害に遭っていることを知った梁さんは、救援のため奔走し、80通を超す救援を求める手紙を複写してメディアに送った。わずか一週間のうちに、数十のメディアがこの問題を報道し、たちまち大きな世論がつくり上げられた。この問題は最悪の事態にならずに済んだのだった。 1998年10月には、英国のブレア首相が中国を訪問した。梁さんは英国がチベットレイヨウのカシミア製品の主要な取次ぎ販売国であることを知り、ブレア首相に手紙を書き、チベットレイヨウのカシミア製品の非合法な貿易をやめさせ、保護するよう訴えた。翌日、ブレア首相から、梁さんの意見を全面的に支持するとの返事が来た。そしてブレア首相は梁さんを接見したのだった。 10年の努力のすえ、「自然之友」はわずか十数人から2000人の会員を擁する巨大な国際的影響力をもつ民間の環境保護団体になった。北京五輪の招致が成功した後、北京市長は梁さんをとくに環境保護顧問として招聘した。 今年7月、国連環境計画(UNEP)の親善大使をつとめる歌手の加藤登紀子さんが中国を訪問した際、とくに「自然之友」に梁さんをたずね、中国の環境保護戦略についてともに話し合った。 「自然之友」に続いて、400以上の民間の環境NGO(非政府組織)が結成され、もはや軽視できない存在になっている。
エイズ患者の心の家つくる
北京佑安病院の伝染病科では、医療関係で働く人々を「医者」とか「看護師」とか、一つの身分で規定することは非常に難しい。勤務中は「医者」や「看護師」として入院中のエイズ患者の治療・看護に責任を持つのだが、勤務時間外になると彼らは、患者のためにさまざまな援助を行うからだ。 「私たちは医療関係者でもありボランティアでもあり、その二つの身分を兼ねているのです」と、看護師長の福燕さんは言うのである。 佑安病院は、中国で最初の、エイズ患者収容の指定病院の一つである。1990年にここには中国で最初のエイズ患者が収容された。当時、エイズに関する人々の知識は非常に欠けていたが、医療従事者も例外ではなかった。エイズ患者が死んだ後、患者の使ったものをすべて焼却したことを、福さんは今でも覚えている。 「恐ろしい」――これが人々のエイズに対する直接的な反応だった。 エイズの予防と治療法の知識が増えて行くにつれ、福さんの恐怖心も次第に消えていった。多くの病人はエイズで死ぬというよりは、精神の崩壊によって死ぬといった方がよい、ということを彼女は次第に悟った。 あるエイズ患者は彼女にこう言った。「私は死ぬのは怖くない。人は一生涯生きて、最後は死ぬ。私がもっとも恐れるのは、親戚や友人がみな私から離れていって、私を無視することだ。彼らは電話一本もかけてきてはくれない」 病人は本来、同情されるべきものだ。しかし現在、エイズ患者は例外である。彼らはエイズであることを、同僚にも友人にも、場合によっては父母にさえ言うことができない。そこで、エイズ患者とエイズ感染者のために一つの「家」を作ろうという考えが生まれた。 1998年、佑安病院は「愛心家園」を作った。エイズ患者たちはこれを本当の自分の家と見なした。彼らはここでは、なにはばかることなく「エイズ」という言葉を使うことができる。医者や看護師といっしょに将棋を指し、トランプに興じることもできる。退院後、うれしいことがあると、彼らは真っ先に「家」にその喜びを知らせようと思い、またいじめに遭っても「家」に来て訴えるのだ。
「愛心家園」の医療従事者は、治療や心のケアに責任を負っているだけでなく、患者といっしょにピクニックに行ったり、中秋節や新年には患者とボランティアがいっしょに交歓会を開いたりする。 看護師の黄玉華さんは、患者がいよいよ世を去る日が近づくと、患者を自分の家に連れて帰り、ご主人といっしょに晩ご飯を作る。そして娘に歌を歌わせたり、踊りを踊らせたりするのだ。 福さんは、患者の医療費の支払いに問題が生じると、強い日差しの中、混んだバスに押し合いへし合いしながら乗って、患者の元の勤務先へ出かける。 ボランティアたちは無償で患者の世話をしている。現在、「愛心家園」には延べ二千人のボランティアが来ている。佑安病院の隣にある首都医科大学からは、看護学専攻の学生の八割が「愛心家園」のボランティアになっている。
北京市の北海公園近くに、ありふれた胡同(横町)が一つある。その胡同の中にある普通の家に「北京慧霊 知的障害者社区サービス機構」(「北京慧霊」)の大きな表札が掛けられている。ここで暮らしているのはすべて、知的障害を持った子どもたちである。 上品でおとなしい盧迎迎さんは、中国人民大学社会学部の3年生である。彼女がこの「北京慧霊」でボランティアを始めてからすでにまる3年になる。 盧さんが、その未知の世界にやって来たのはまったくの偶然からだった。 三年前のある日、彼女は国家図書館の分館で、資料を探していた。突然、どこか欠陥のありそうな中学生くらいの年の男の子が彼女の行く手を遮った。彼女はびっくりして、どうしたらよいか分からなかった。すると年の男の子はおずおずと「お姉さん、便所はどこ?」と尋ねたのだった。盧さんは、この子が弱く、彼女の助けを必要としていることを悟った。 当時、「北京慧霊」は、ボランティアを募集していた。盧さんは迷うことなくそれに応募した。それから盧さんは、毎週一日、ボランティア活動を続けた。彼女は子どもたちに英語や手芸、踊り、絵を教えた。子どもたちが少しでも進歩すると、彼女は大きな喜びを感じるのだった。 こうした知的障害のある子どもたちに接して、その中の一人一人の子を理解するのは簡単ではない。三年間の接触で、盧さんは次第に、ここの子どもたちが好きになり、一人一人の特徴や好みが何かがわかるようになった。「北京慧霊」でボランティアをすることは、彼女にとって欠く事のできない生活の一部となった。 現在、「北京慧霊」に登録されているボランティアは600人余り。盧さんはすでにボランティア養成の先生になっている。
「北京慧霊」は2000年春に設立された。1985年に設立された「広州慧霊」の姉妹組織である。1988年、「慧霊」の創立者である孟維娜さんは、日本の神奈川県座間市の招待をうけ、座間市を視察した。彼女はそこで、知的障害者が社会に溶け込む教育のモデルを知り、大きな啓発を受けた。それはその後、知的障害者の組織を創るうえで参考になった。 「北京慧霊」を立ち上げたあと、孟さんは西安や西寧にも次々に「慧霊」を設立した。さらに京広鉄道の沿線の大中都市にも「慧霊」を広めようとしている。 彼女は、「北京慧霊」は一つのモデルケースにすぎない、と言う。彼女の最終目標は、知的障害者が独立して生活できる能力を養うことである。 「慧霊」を運営する過程で孟さんは、数カ所の「慧霊」を興すだけでは根本的な問題の解決にはならず、法律で弱者の権利を保護しなければならないと考えた。そこで彼女は、他のNGOといっしょに、積極的に立法に参加し、ついに2004年、知的障害者の最低生活保障法を成立させた。 現在、「北京慧霊」などのNGOは、『中華人民共和国障害者保障法』の修正案を提出しており、さらに広い範囲で法による保障を推し進めようとしている。(2004年11月号より) |