生まれ変わる 古来の調べ
経済と伝統に 揺れる民族音楽
 
 
                             于文=文 馮進=写真
 
2004年10月10日、北京の故宮・午門広場で、フランス文化年の開幕式の音楽会が挙行され、世界的な電子音楽の演奏家、ジャン・ミッシェル・ジャールと中国の有名な二胡演奏家の程リンが『宇宙環繞音』(宇宙を駆け巡る音楽)を合奏した。

 胡弓、横笛、揚琴、琵琶、三弦……
 中国の高級レストランでは、伝統楽器が現代的な音楽を奏でている。
 日本では、北京から来た「女子十二楽坊」のアルバムが売れに売れ、
 ウイーンの国立歌劇場では中国民族音楽のコンサートが開かれた。
 だが、ついこの間まで、中国の民族音楽は衰退しきっていた。
 若者たちは民族音楽にそっぽを向き、
 お年寄りや一部の愛好家が細々と伝統芸を守ってきた。
 それがいま、急に流行り始めたのである。
 民族音楽はどのようにして息を吹きかえしたのか。
 そしてその将来、民族音楽は生き続けられるのか。
 近代化、欧米化が進む中で伝統芸術をどう継承すべきか、
 世界の多くの国々が悩んでいる中で、
 これは中国で進められている一つの実験ともいえる。

「十二楽坊」はなぜヒットした

北京から日本にやって来た「女子十二楽坊」は、中国の民族音楽を新しい形で演奏し、喝采を受けた

 北京の音楽大学を卒業したばかりの若い女性が12人、そろって中国の伝統的な民族楽器を抱えて登場し、テンポの速いポップスを奏でながら踊る――あの「十二楽坊」が日本に上陸したのは昨年9月だった。

 瞬く間にデビューアルバムは200万枚を突破した。彼女たちの影響をうけてか、日本で二胡や筝といった中国の伝統楽器が売れているという。

 「十二楽坊」はなぜ日本で受けたのか。

 彼女たちの演奏テクニックは高く、みな美人で、踊りもうまい。シンセサイザーの伴奏もよくマッチしていて、彼女たちの演奏を引き立てている。それがヒットの主な理由だろう。

 その他にも中国では、日本人が遣唐使の昔から中国文化に親近感を抱いていることが十二楽坊ヒットの背景にあるとか、日本のレコード業界は若い女性グループが好きだとか、中年の人たちには聴きたい音楽があまりないとか、さまざまな意見もある。

二胡を学ぶ李麗媛ちゃんを見つめる母親の眼は真剣そのものだ

 ともあれ、「十二楽坊」の成功は、中国の民族音楽関係者に大きな自信を与えた。馮暁泉、卞留念といった新しい民族音楽の作曲家たちや「音楽猫」「CMO」「芳華十八」などの新しい民族音楽バンドが脚光を浴びている。民族音楽の演奏家たちは次々に個人アルバムを世に出した。

 テレビでも、民族音楽の番組が増えた。レコード屋やビデオ店に並ぶ民族音楽のCDやDVDの数も多くなった。音楽ホールで催される民族音楽の音楽会も多くの聴衆を集めるようになった。

生活に溶け込む民族音楽

北京で行われた「各国大使館員夫人の日」で、バングラデシュの駐華大使館二等書記官夫人は二胡に興味津々だった

 さらに民族音楽は、庶民生活の中にも入ってきた。

 ホテルやレストランの中には、民族音楽のショーを毎日催すところもある。客は美味しい料理を食べながら民族音楽も楽しめるというわけだ。

 北京の新名所の一つ、什刹海では、船の舳先に座った人が琵琶を奏でる遊覧船もある。昔、南京の城内を流れる秦淮河には、劇場が立ち並び、琵琶の音が流れていたが、遊覧船の客たちはあたかも古の秦淮河に身を置いているように感じるという趣向である。

 子どもたちの遊び場になっている北京の少年宮では、二胡を習う子どもたちが増え、教室も開かれている。子どもの英才教育に、民族音楽を選ぶ親が増えているのだ。

 六歳の李麗媛ちゃんが二胡を一生懸命に弾きながらこう言った。「私、もう、二胡に夢中。大きくなったらきっと二胡奏者になるわよ」


どのようにして蘇ったか

 

 実は、中国の民族音楽は、つい最近まで危機的状態にあった。1980年代から始まって90年代の初めごろまで、民族音楽はどん底だった。改革・開放にともなって、外国の文化が大量に中国に流入してきたからである。

 ポップスやロック、ブレークダンスが、長い間、閉鎖状態にあった中国の人々の心を震撼させた。愛を歌いあげる歌、強烈で刺激的なリズムが、当時の中国人の心にマッチした。さらにテレビの普及が外国音楽を全中国に広めた。人々は香港、台湾の流行歌やロック歌手の活躍に熱狂した。

 そして民族音楽はほとんど忘れられてしまった。民族音楽の音楽会に行くのは、ほんの一部の人だった。多くの民族楽器の演奏家たちは電子楽器に鞍替えした。

 このままでは、伝統的な民族音楽は滅んでしまう、という危機感が広がった。政府はいくつかの手を打った。

一芸に秀でると入試に有利

浙江省海寧市の斜橋鎮中心小学校の児童たちは「サ吶」(チャルメラ)の吹き方を学んでいる

 教育部は1990年代の中ごろ、子どもたちに徳育、知育、体育とともに「美的教育」を施し、全面的に発展させる英才教育を展開することを提起した。これによって北京や上海などの大都市で、子どもたちに芸術を学ばせるブームが巻き起こった。

 大学から小学校まで、次々に芸術団が設立された。子どもたちは放課後、専門の先生を招いて芸術を学んだ。中央から地方までの各行政単位の教育部門は、芸術祭やコンクールなどを開催し、それを通じて各学校は、英才教育の成果を競った。

 英才教育がうまくいけば、子どもは賞を受け、学校も有名になる。そしてさらにできの良い子どもを集めることができる。このため学校は、楽器の演奏のうまい子を集めるため、最低合格ラインを引き下げた。こうして入学した子どもたちは「特長生」と呼ばれる。

 例えば、ある大学の入学試験では、「特長生」は最低合格ラインよりも50点低くて合格できる。北京の大学の入試は、750満点だから、50点の比重は大きい。「特長生」は入学後、その学校の芸術団に参加する。そして学校の栄誉のために尽くすのだ。

親の願いも叶う

癌と闘っている曹和さん(中央)は、北京老人活動センターの仲間たちといっしょに演奏の練習に励んでいる

 親たちもまた、子どもが一芸に秀でていることを望んでいる。それは中国の伝統的な観念と関係がある。

 昔、中国では、「琴、碁、書、画」に精通した「才子佳人」が尊ばれた。「よく琴を弾じ、碁を打ち、書を書き、画を描く」ことは、今日で言う「特長」である。

 とくに最近は、家庭が豊かになった。親は子どもに楽器や書画を学ばせる余裕ができた。

 どの面の「特長」を選ぶか。多くの親たちは、民族音楽に親近感を抱いている。それに、西洋楽器に比べ民族楽器は安い。民族文化の高揚が叫ばれている社会環境の下、勢い民族楽器に人気が集まるのだ。

 当然のことながら、子どもに楽器を学ばせると、子どもの勉強の負担が増えることになる。しかし、「特長教育」によって、入試の狭き門が広くなり、中国の民族音楽の予備軍が大量に養成されるのならば、それも一定の積極的な意義があると言えるだろう。

多くの人が支える

北京・王府井の民族楽器店の韓金順さんは、古代の楽器「けん」の演奏に熱中している

 お年寄りやボランティアの活動も、民族音楽の復活に貢献している。

 北京市政府は高齢者活動センターを設立したが、ここに集まるお年寄りたちの多くは民族楽器が演奏できる。彼らは民族音楽楽団を結成し、ここで練習し、公演する。今年の全国器楽コンクールでは、金賞を獲得した。

 70歳になる曹和さんは民族音楽楽団の団長である。彼は癌を患っているのだが、いまも矍鑠としている。「音楽がなかったら、私はずっと前に死んでいたに違いない。みんなといっしょに琴を弾いて、幸せな晩年を過していますよ」と言った。

古琴の楽譜

 山村の学校へ出向いて、民族音楽をボランティアで教えている演奏家もいる。

 リード楽器の演奏家で、教育者でもある何維青教授は、竹笛を持って山に分け入る。北京郊外の六渡山区にある小学校で教えるためだ。彼は自分のお金で子どもたちに楽器を買ってあげ、授業料も取らない。子どもたちは何先生がやって来るのを、首を長くして待っている。

民族音楽は、人々の生き甲斐になっているのだ。

「復活」の背景にあるもの

音楽グループ「微妙感覚」。右から2人目が霍暁君さん。

 衰退していた中国の民族音楽が、猛烈な勢いで発展を始めた背景にはどのような力が働いているのか。中国人民大学で社会学を教えている馮仕政博士はこの現象を四つの面から分析する。

 第一は市場経済の影響である。市場経済が民族音楽を音楽ホールから外に引き出した。そして庶民の芸術にし、社会的流行になった。例えば、レストランの中で民族音楽を演奏すると雰囲気がよくなり、人々の消費心理がかきたてられる。だから民族音楽は経済的利益をもたらすと同時に、その普及にも役立っている。

 第二に、民族音楽が一種の流行になったのは、社会学でいう「振子式循環」の法則に従ったものと考える。つまり、民族音楽がロックの流行したあと、新しい形で再び流行したことには必然性がある。現在の「復活」は、この法則の通りに振子が元に戻ったものだ。

 第三に、グローバリズムの進展は、不可避的に文化の単一化をもたらす。しかし、単一化が激しく進むと、必然的に多元化を求める動きが生まれる。中国が民族音楽を重視するのは、自発的なもので、単一化に対して抵抗する心理があると見ることができる。

 第四に、もっとも重要な原因は、改革・開放以来、中国人の思想が変化したことにある。1980年代は、人々は外国文化を崇拝した。しかし現在、中国は国力を増し、民族音楽が世界的に脚光を浴びた。それが中国人に自分の民族文化を再認識させた。中国人は自分の民族文化に誇りを持ったのだ。

新しい表現形式の模索

中国人民大学社会学部の馮仕政博士

 馮博士のいう「振子式循環」の結果、民族音楽が「新しい形」でよみがえったとするなら、その「新しい形」とはどのようなものなのだろう。民族音楽のエキスパートである中国歌劇舞劇院の民族楽団のコンサートマスター、柏ム氏はこう述べている。

 「中国の民族楽器は音色がそれぞれ違い、その組み合わせも多種多様で、きわめて強い表現力をもっています。民族音楽が発展しようとすれば必ず、新しい音楽的要素を取り入れ、さまざまな形を採用しなければなりません。聴衆に喜ばれる音楽、聴衆が求めている音楽を演奏してはじめて新たな活力を発揮することができます。現代の発達したメディアや技術を使い、これを民族音楽の伝達手段にすることが必要です。要するに時代の歩みについていく音楽が、現在の民族音楽の新しい形なのです」

 その「新しい形」を追求している民族音楽家がいる。「女子十二楽坊」で二胡を担当していたが、現在は「微妙感覚」という楽団を立ち上げた霍暁君さんだ。

 「微妙感覚」は五人の若い女性で構成されている。揚琴は趙霞さん、琵琶は劉峰さん、筝は雷オ蜑_さん、チェロは常双トンさん、それに二胡は霍さん。

中国歌劇舞劇院の民族管弦楽団のコンサートマスターで「国家一級演奏者」の称号を持つ柏Eさん(撮影・于文)

 組み合わせの形からいえば、中国の民族楽器と西洋楽器が結合している。これにより互いに長所を生かし短所を補うことができる。曲目の選択から言えば、人々がもっともよく知っていて、しかももっとも民族の特徴をもっている曲、例えば蒙古族の『牧歌』や西洋の古典音楽の『くまん蜂の飛行』などを演奏する。

 彼女たちのために作曲し、アレンジを受け持っているのは、専門的な古典音楽の教育を受け、現在はポップスの創作や演奏に従事しているミュージシャンたちである。「だから私たちの音楽は、古典でもありポップスでもあるのです」と霍さんは言う。

 演奏の形からいうと、シンセサイザーを伴奏にし、演奏のテクニックを示すため、曲の中にそれぞれの楽器の優れた音色を挿入する。また曲の中に歌を入れたり、舞台の上で踊ったりし、観客に「いっしょに踊ろう」と呼びかけ、リズムに合わせて手拍子をとってほしいと求めるなど、さまざまな形で観客をひきつけようとしている。

民族音楽に未来はあるか

河北省白洋淀の農民による音楽会は、多くの観光客をひきつけている

 復活したとはいえ、中国の民族音楽はこれからどうなるのだろう。さらに発展し続けるのか、それとも再び消滅に向かうのか。それを占うには、子どもたちの考えを聞いて見るのが近道だ。なぜならこれからの民族音楽を担うのは、子どもたちだからだ。

 北京の進学有名校である第二実験小学校では、7歳から11歳までの子ども1040人のうち、なにか楽器の演奏ができる子どもは142人いる。この子どもたちを対象に、弊誌は民族音楽に関する簡単なアンケート調査を行った。その結果は別表T、U、Vの通りである。

 この小学校は、音楽を重視していて、校内には吹奏楽団と民族楽団がある。この二つの楽団はいつも芸術コンクールに出場し、団体や個人で入賞している。毎年、「特長生」制度で重点中学に進学する子どもも多い。だから子どもも親も、楽器演奏の習得に熱心だ。

将来は暗くない

 表Tから分かることは、民族楽器を学ぶ子どもの方が西洋楽器より多いということだ。

 その理由はいろいろあるが、まず、民族楽器の価格が西洋楽器より安いこと。さらに携帯に便利、演奏が簡単で学びやすい、音色が穏やかで隣近所の迷惑にならない、親が子どもに中国の伝統文化を学ばせたい、などの理由が考えられる。

 表Uからは、子どもたちが民族音楽についてかなり知識をもっていることがわかる。

 五種類以上の民族楽器の名前を正確に答えた子どもが半数近くを占めた。一つも答えられなかった子どもは五%に過ぎなかった。

 子どもたちが民族楽器をかなり知っているのは、子どもたちが日常生活の中で民族音楽に接する機会がかなり多いためだろう。学校では音楽の授業で民族音楽が教えられ、テレビには民族音楽の番組がある。

 表Vからは、子どもたちにとって人気があるのは、やはり西洋楽器だということだ。もっとも人気があるのはフルート、ついでサクソフォン、クラリネットの順で、上位三つは西洋楽器が独占した。西洋楽器の美しさや西洋文化に対する憧れのせいかもしれない。

 民族楽器は四、五、六位を占め、そのトップは筝だった。少し前なら、民族楽器はベストテンにも入らなかったかもしれないが、民族楽器の知識が普及するにつれ、子どもたちの間で人気も高まってきた。

 注目すべきは、かつては人気のあったピアノとバイオリンが、民族楽器の後塵を拝していることだ。英才教育が始まったばかりのころは、ピアノとバイオリンを学ぶ子どもが非常に多かった。しかし学校側が、さまざまな種類の楽器を演奏する子どもを求めるようになると、子どもたちが学ぶ楽器の種類も増えたためだ。

 こうしたアンケート調査の結果から、中国の民族音楽の将来は、決して暗くはないということができるだろう。民族音楽は、子どもたちの間である程度普及している。彼らは今後、民族音楽を鑑賞し、広め、継承していく。だから、民族音楽が消滅してしまうことはないように見える。

浙江省慈渓市の民族楽団はフランスで公演し、好評を博した

 しかし、グローバルな視点で考えると、全世界から流入する豊富で多彩な文化や思想は、中国に大きな影響を与えずにはおかない。世界各国は、民族文化の保存と継承を重視し、中国や日本で伝統文化が復活する現象が起きてはいるが、単に保護するだけでは、博物館に陳列された展示品になるだけだ。

 どのようにして伝統文化を時代の需要にマッチさせるか、そして現在の社会環境の中で、新たな生命力を吹き込むか、これは今後、長期にわたって模索しなければならない課題だろう。(2004年12月号より)

 
 


中国音楽発展の歴史

 原始時代、音楽は祭祀の中で使われた。原始音楽には階級的色彩はなく、生活の一部であった。

 周王朝が「礼楽」の制度を打ちたて、周の国の音楽を国楽と規定し、これを「雅楽」と称した。音楽は身分と地位の象徴となり、統治の手段となった。
           
 秦漢時代には楽府が設立され、皇帝のために民間音楽が収集され A皇帝の楽しみのために供された。序曲と主題と終局をもつ「相合歌」が出現した。
           
 東晋時代以後、南北の民族は大融合し、長江中下流域の「楚歌」と北方の民歌が結合し、「清商楽」が形成された。
           
 隋唐時代は社会が相対的に安定し、少数民族の文化と漢文化が大融合して「大曲」ができた。「大曲」は楽器演奏、歌唱、舞踏の三つの部分から成っている。日本の遣唐使、粟田真人が『秦王破陣楽』という曲を日本に持ち帰り、今日まで保存されている。
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 宋元明清の時代には、音楽は宮殿から社会に出て、酒楼や戯場に現れ、庶民文化の一部となった。弾き語りなどの音楽形式や戯曲の伴奏など、多彩で多様な音楽が現れ、中国の古典音楽が形成された。