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横堀克己=文 于明新 沈暁寧=写真 |
長い間、幻と言われてきた夏王朝。 夏王朝はもはや幻ではない |
20世紀の初めまで、周(紀元前1046〜同256年)が最古の王朝とされ、それに先立つ商(殷)王朝の存在は未確認とされてきた。司馬遷の著した『史記』などの文字史料は豊富にあるものの、その存在を確認する遺跡や実物が見つかっていなかったからである。 商王朝もかつては未確認
商の存在が確認された発端は、偶然からだった。 清朝末期の1899年秋のことである。孔子を祭る北京の国子監で祭酒(祭典を司る長官)をつとめていた王懿栄(1845〜1900年)は、マラリアを患っていた。当時、薬屋で売られていた「竜骨」と呼ばれる亀甲や獣骨がマラリアに効くといわれ、北京の宣武門外にあった達仁堂という漢方薬店に「竜骨」を買いに行った。そこで王懿栄は、「竜骨」の上に、文字らしきものが刻まれているのを見つけた。 金属や石に刻まれた文字を研究する「金石学」の著名な学者だった王懿栄は、これが商代の甲骨文字に違いないと考えた。そこで店にあった「竜骨」を全部買い占めた。それに留まらず、あちこちの店から「竜骨」を買い集め、千五百点以上の甲骨文を収集した。 「竜骨」が見つかっている場所は、河南省安陽の小屯村だった。農民たちは「竜骨」を密かに掘って、売っていたのである。最初は「竜骨」の粉が刀傷に効くというので、薬屋に売っていたが、「竜骨」の買占めが始まると発掘はブームとなった。
清朝末期の30年間に、10万点もの甲骨が掘られたという。「竜骨」の発掘を巡って農民同士が争い、掘り出された「竜骨」を匪賊や軍閥が略奪するなどの事件まで起こった。 「竜骨」の出る場所は次第に知れ渡り、1908年、著名な学者の羅振玉(1866〜1940年)が現地を訪れた。彼はここで収集した甲骨文と各種の器物を収めた『殷墟古器物図録』を出版した。また、文字史料に記載されている商(殷)の帝王の名前が甲骨文の記述と一致することを発見した。 殷墟の本格的な発掘は1928年から始まった。大量の甲骨文のほか、宮殿址や陵墓などが発見された。いまや商王朝の存在を疑う人はいない。
殷墟の発掘から、商代に絢爛たる文化が花開いていたことがわかった。しかし、これほどの文化が、突如出現したとは考えにくい。商に先立つ文化をもった王朝が存在したのではないかと考えるのは、自然である。 前漢の歴史家、司馬遷の『史記』は「五帝本紀」「夏本紀」「殷本紀」の順に中国の古代を記述している。殷墟の発見で、「商(殷)」の存在が確認された以上、次に「夏」の存在の有無に関心が集まった。 しかし、夏王朝の都がどこにあるのか、まったく分からなかった。『史記』には夏の都について、「禹は陽城に移った」とある以外に記述がない。だが、竹簡をもとに書かれた『竹書紀年』(注)などの古書を参考に、夏の歴代の王が居た場所を示すと次のようになる。
禹――陽城 しかし、こうした地名が現在のどこに当たるのかは、諸説あってなかなか確定できない。だが、それを突破したのが考古学の発掘である。 河南省偃師の二里頭村は、伊河と洛河に挟まれた洛陽平原にあり、古い土器が出土していることから夏王朝と関係が深いのではないかと思われていた。1959年秋、中国社会科学院考古研究所による試掘が行われた。その結果、この遺跡が、総面積375万平方メートルもある大規模なもので、二里頭村など五つの村にまたがって分布していることがわかった。 さらに本格的な発掘が1960年から1964年まで、9回にわたり続けられた。そして、陶器を焼いた窯や井戸の跡、四十基以上の墓が確認され、大量の陶器、石器、骨器や青銅器、玉器が出土した。 考古研究所の所長を勤め、国際的にも知られた考古学者の夏ダイは、この二里頭遺跡が他の商代の遺跡と異なる特徴を持っていることから、すでに発見されていた河南省の登封遺跡や鄭州の洛達廟遺跡などとともに「二里頭文化」と命名した。 注:『竹書紀年』太古から戦国時代までの魏の国の歴史書。竹簡に書かれている。 ついに出た宮殿址
その後、放射性炭素の崩壊を利用した年代測定法が次第に精度を増し、二里頭遺跡の年代は紀元前1900年ごろから紀元前1500年ごろであることが分かってきた。二里頭遺跡が商によって滅ぼされた夏王朝である可能性が非常に大きくなった。 しかし、夏王朝の存在に否定的な人たちは、大規模な宮殿址が出土していないことをその理由に挙げた。土器や住居址が見つかっただけでは、王朝が存在したとは言い切れないというのである。 しかし、1990年までに行われた合計41回の発掘の結果、二カ所の宮殿址が全面的に姿を現した。このほか、廟建築址二カ所、中小の住居址五十余、青銅器の工房址、大量の青銅器、トルコ石の象嵌を施した青銅製の牌飾などが出土した。これによって夏王朝が二里頭に存在したことは、もはや疑う余地がなくなったのである。
さらに中国が考古・歴史学者らを総動員して、中国史の時代区分を決めるために展開した「夏商周断代工程(プロジェクト)」は、夏王朝の期間は「紀元前2070年から紀元前1600年」と断定した。 これについて、日本の夏王朝研究の第一人者である岡村秀典・京都大学助教授は、昨年1月17日付けの朝日新聞で、「断代工程」の結論が獣骨などの炭素による年代に、『竹書紀年』などの竹簡文献を加算した「木に竹を接ぐような方法による目安に過ぎない」としつつ、遺跡の規模や出土品などから二里頭遺跡が「紀元前1700年ごろの夏王朝の最後の王、桀がいた都の斟尋の跡である可能性が大きい」と結論付けている。 宮殿址の下に宮殿が
最初に発見された1号宮殿址は、二里頭遺跡のほぼ中央部にあり、基壇の大きさは東西約108メートル、南北約100メートルある。宮殿はほぼ正方形で、東南の一角が張り出している。 基壇は深く土を掘り、その上を「版築」と呼ばれる方法で、一層一層、硬く土を突き固めて、当時の地表から約80センチの高さまで積み上げている。「版築」は極めて固い。 ほぼ南に大門があり、周囲は回廊が走っている。大門に向かい合うように主殿がある。主殿は長さ35メートル、幅25メートルの長方形をしており、残された柱の穴からみて、この上に大きな木造建築が建てられていたと見られる。 2号宮殿は、1号宮殿の東北にあり、東西58メートル、南北73メートルの長方形をしている。南に大門があり、大門に向かい合って主殿が建てられていた。2号宮殿は1号宮殿の約半分の大きさだが、1号宮殿とは異なり、主殿の後ろに大きな墓がある。 さらに近年、ボーリング調査と発掘の結果、2号宮殿の下に3号宮殿と5号宮殿があることが分かった。3号宮殿と5号宮殿は東西に並列していて、100メートルを超す木製の暗渠で結ばれており、その規模は2号宮殿より大きい。 さらに地元の考古学者によると、4号宮殿、6号宮殿、8号宮殿の存在が確認されているという。また青銅器の鋳造工房址や緑松石(トルコ石)の加工を行った工房址や骨器を製作したあとの残りを捨てた場所も発掘されたという。これは当時、すでに分業が行われていたことを示すものだ。 巨大宮殿址の発見
宮殿址が分布している約10万平方メートルの遺跡地帯から、2003年春、また大きな宮殿址が発見された。2004年夏までに行われた発掘調査では、この宮殿は東西約300メートル、南北360〜370メートルの長方形で、周囲に幅2メートルの「版築」の城壁を巡らしている。1号宮殿や2号宮殿に比べ、面積ははるかに大きい。また、祭祀に用いたと思われる青銅器も発見され、他の宮殿よりも時代が古いことが分かった。 注目すべきことは、この巨大宮殿の外側に沿って「井」の字形に、四本の大きな道の存在が確認されたことだ。道幅は10〜20メートルもあった。 このことから、夏代には都市計画があり、宮殿を中心にして道路が縦横に、整然と走っていたと推定される。こうした都市構造は、基本的に代々受け継がれ、紫禁城を中心に南北に中軸線を持つ王朝の都城建設の原型となった。 もう一つ注目されるのは、道の上に車の轍の跡が発見されたことだ。轍の跡は、長さ5メートル。宮殿の南側の道に、東西に二本、平行して走っていた。 二本の轍跡の間隔は1メートル前後であることから、車軸の幅が約1メートルの二輪の馬車が走った跡だと思われる。殷墟でも二輪の馬車が出土しているが、その車軸の幅は2メートル以上ある。これに比べて夏代の馬車はかなり小型だったことが分かった。 このように、中国最古の王朝の全貌が、次第に明らかになってきた。しかし、この巨大宮殿がどの位置で発見されたのかはまだ公式に発表されていない。現在、現場は、一面のトウモロコシ畑となっている。農民が土地を耕作しない冬場に発掘が行われ、春になると埋め戻される。こうしたやり方で、遺跡は少しずつ発掘され、保存されているのである。
二里頭遺跡が夏王朝の中期以後の王城であったことはほぼ確定したが、2004年10月、二里頭遺跡から東南に約80キロ離れた河南省新密市(旧密県)で、さらに古い夏王朝の王城が発見されたというニュースが入ってきた。 新華社電などによると、この遺跡は新密市の東南18・6キロの劉寨鎮新砦村の「新砦城址」で、城址の面積は100万平方メートル以上、外濠、城濠、内濠の三重の濠に囲まれている。城内からは、宗教的な行事が行われたと思われる大きな建造物の跡や骨器の加工工房が見つかった。土器などの出土品の数量は多くなかったが、精巧に作られていた。 炭素 による測定の結果、新砦遺跡は紀元前2000年〜同1900年のものだと分かった。「断代工程」では夏は紀元前2070年に始まったことになっているから、夏王朝の初期の王城であると推定される。 中国の古代地理書である『水経注』には、夏の帝王「啓」が「地望」というところに住んだことが記載されている。専門家は新砦遺跡がこの「地望」に完全に符合すると判断している。 『史記』などによると、夏王朝は、禹によって建てられた。その前の帝王である尭は舜に、舜は禹に位を禅譲した。禅譲とは、天子がその位を世襲せずに、有徳者に譲ることをいう。 禹は東方に巡狩して会稽で崩じたが、10年間、政治を任せていた「益」に位を授けた。しかし「益」は三年間の喪があけると位を禹の子の「啓」に譲った。諸侯は「益」を去り、「啓」のもとに集まり、「啓」は天子の位に就いた。天子の位の禅譲は、このときから世襲に変わる。「啓」は初代の世襲制の皇帝である。 「啓」の都であると見られる新砦遺跡は、現在、完全に封鎖されていて、訪れることはできない。また詳しい調査報告も発表されていない。しかし、ここが「啓」の造った都と確認されれば、伝説上の帝王と言われてきた尭、舜、禹の姿もまた、少しずつ見えてくるような気がする。 (2005年2月号より) |
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