特集 姿現した中国最古の王朝の都

空白が埋められてゆく中国古代史
  
偃師商城の宮殿の復元図
発掘され、保存されている偃師商城の宮殿址

 中国最古の王朝である夏の存在が確認され、その変遷の歴史が明らかになってきた。しかし夏王朝の滅亡から安陽の殷墟に商(殷)の都が移るまでには、なお、かなり長い歴史の空白がある。

 「断代工程」では、夏の滅亡は紀元前1600年となっている。商は紀元前1046年に滅亡したが、殷墟は、商王朝晩期の都城の址で、ここに都城が置かれていた期間は、滅亡までの200年ほどに過ぎないというのが定説だ。と言うことは、夏の滅亡から約350年ほどの商の歴史が、空白になっていたのである。

 だが近年、河南省各地の発掘から、商代の前期、中期のものと見られる遺跡が数多く発見され、徐々にその期間の全貌が見えてきた。中でも、「偃師商城」と「鄭州商城」「茖北商城」の発見は、この間の歴史の空白を埋める重要なものである。

夏を滅ぼした商の都

 夏の最後の帝王、桀は、暴虐な君主であった。「桀は徳を修めず、百官を殺傷した」と史書は伝えている。商王朝の開祖の湯(武王)も、一度は桀に捕えられたが、生命だけは助かった。その後、湯は諸侯を率いて桀を討ち、天子の位に登った。桀は「湯を殺しておけばよかった」と悔やんだが、後の祭りだった。

 湯は都を「亳」に定めた。ここは一族の祖の犢が都を置いたところである。その後、商はたびたび都を移す。『史記』や『竹書紀年』などには、次のように記述されている。

鄭州市内に残されている鄭州商城の城壁

 「中丁(仲丁)は都をに移した」
 「河亶甲の時、都を相に移した」
 「祖乙(且乙)は都を耿に移した」
 「盤庚(般庚)は河北に都していた」
 「盤庚は奄から北蒙(殷)に都を移した」
 「武乙が都を亳から河北に移した」

偃師商城は亳か

 商王朝の最初の都である「亳」は、いったいどこにあるのか。長い間、中国では学者たちが論争を続けてきた問題である。その論争に一石を投じたのが、「偃師商城」の発見だ。

 1983年の春、洛陽から西に約30キロにある偃師市で城壁と城門をもつ都城址が発見された。その後、1995年まで、大規模な発掘調査が行われ、城内の南部からは複数の宮殿址が発見された。また出土品から商代早期の都城と判明した。

 この「偃師商城」は面積約200万平方メートル。城壁の総延長は5500メートルで、五カ所に城門があり、城外には濠が巡らされている。城内の宮殿区からは、少なくとも九座の宮殿址が見つかっている。

 その中で4号宮殿址は、東西51メートル、南北32メートルあり、南向きの正殿と中庭、小部屋群からなっている。5号宮殿は東西104メートル、南北91メートルで、4号宮殿と同じような造りになっているが、面積は四倍も大きい。6号宮殿は、5号宮殿の下から発見された。

 偃師商城博物館の王竹林副館長によると、4号宮殿は学府(学校)として使われ、後世の科挙のような試験が当時、早くも行われていたのではないかという。また5号宮殿は、帝王の一族の祖廟だったと推定される。

偃師商城博物館の王竹林副館長

 出土した陶器の形態や宮殿址の地層の分析から、偃師商城は商代早期に建設された都城であることが分かった。また夏王朝の宮殿址が見つかった二里頭遺跡からわずか6キロしか離れていない。

 こうしたことから多くの学者たちは、偃師商城は、夏と商の王朝交代の時期(紀元前1600年ごろ)に造られ始めたと見ている。さらにこの都城は、土壌の分析などから紀元前1600年ごろまで続いたと見られている。『尚書』(注)では「偃師は西亳」と記されている。『辞海』は「西亳」は「亳」の別名である、としている。

 また、『史記』は、商の湯王が夏を滅ばしたあと、「夏の子孫を封じた」と記載しており、夏人はもとのまま、二里頭に留まっていたと考えられる。とすれば、商王朝の初期の首都を、夏王朝のかつての都に近い偃師に置くことによって、二里頭の夏人を支配してゆく意図があったのではないか、と偃師商城博物館の王副館長は見ている。

 余談だが、昨年、この偃師商城から、紂王が「酒を池にたたえ、肉を林にかけて酒宴を開いた」という「酒池肉林の人工池」が見つかったと日本でも報道された。しかし、王副館長は「この報道は誤りだ」という。

 確かに偃師商城から人工池は発掘されているが、これは「入水造景」という庭園の造り方である。だが、偃師商城は、商代の前期の都城址であり、商の最後の王である紂王とはまったく関係がないからだ。

 注:『尚書』『書経』の別名。『虞書』『夏書』『商書』『周書』に分かれ、各代の史官の記録。魯国に伝わった周公に関する記録が中心になっている。

鄭州商城はゴウか

エン北商城の発掘現場。現在は埋め戻されている

 一方、河南省の省都、鄭州は、1950年代に、二里岡文化の遺跡が発見されていた。二里岡文化は近年の科学的年代測定で、紀元前1600年ごろから始まることが分かった。偃師商城と同時代の、商代初期のものと言える。

 その二里岡遺跡から、1970年に、巨大な城壁と宮殿の址が発見された。それが鄭州商城である。

 鄭州商城は、現在の鄭州市中心部の真下に埋まっている。ほぼ長方形をした城壁の総延長は約7000メートル、城内の東北部から多数の宮殿址が発掘された。

 この中で規模の大きな宮殿は二つある。一つは南北の長さが38メートル、東西の幅31メートル、もうひとつは東西65メートル、南北14メートル。残された柱の穴などから復元すると、これらの建物は、回廊を持つ、二重屋根の大きな建物で、政治を行う御殿や寝殿として使われたと見られる。

 この鄭州商城は、商代のどの王の都に当たるのか――それを巡って中国の専門家の間では長く論争が続けられてきた。その中で有力なのは、これが中丁の時に移った「ゴウ」であるとの説である。しかし、ここを商代の最初の都とする説もある。

 鄭州商城と偃師商城は約100キロ離れているが、いずれも黄河の南岸にある。いずれにせよ商代のほぼ同時期に、この二つの都城が存在していたと思われる。とすれば、その二つの都城の役割はなにか。『中国考古学(夏商巻)』(2003年版)は、この問題をめぐって、次の三種の意見がある、と紹介している。

 @偃師商城は湯の都の「亳」であり、鄭州商城は中丁の都の「ゴウ」である。

 A鄭州商城が湯の都の「亳」であり、偃師商城は別の都(あるいは重要都市)である。

 B両方とも商代早期の国都であった。

エン北商城の発見

発掘され、展示されている婦好墓の内部

 夏王朝の滅亡の後、偃師商城あるいは鄭州商城に都を構えた商王朝は、その後、安陽の殷墟に都を移したのだろうか。

 殷墟に都が移ったのは商の晩期、盤庚の時である。『竹書紀年』を引用した『括地志』は、「(商の最後の王)紂の滅亡まで273年、さらに遷都することはなかった」と記載している。

 「断代工程」では、商の滅亡は紀元前1046年だから、これを差し引くと、殷への遷都は「紀元前1319年」という計算になる。

 史書によると、中丁から盤庚までの期間、都は「ゴウ」から「相」「耿」(あるいは「庇」「ケイ」)「奄」「河北」などを転々としたことになっている。それらの都はどこにあったのか。

 1999年、安陽の殷墟の外を流れる茖河を渡った対岸の一帯が本格的に発掘された。そして2・5メートル以上の地下から、一辺が2キロ以上ある、ほぼ正方形の大きな都城址が発見された。茖北商城である。その面積は470万平方メートルで、偃師商城、鄭州商城の規模に匹敵するものだった。

 さらに2001年には、宮殿区が発掘され、現在までに31の宮殿の建物址が見つかった。宮殿区の広さは南北約500メートル、東西200メートル以上あり、その中で最大の1号宮殿は、長さ173メートル、幅91メートルの四合院の形をしている。その他に幅9メートルの城壁や、二カ所の門道、回廊、住居址、玉器、陶器などが見つかっている。また馬車道が出土していて、その車輪の幅は2・2〜2・4メートルあった。

 現地で発掘に当たってきた中国社会科学院考古研究所の唐際根研究員によれば、この都城は、炭素の崩壊や陶器の形態などから総合的に判断して、今から3300〜3400年前の、商代中期のものであるという。

安陽・殷墟の宮殿址

 殷への遷都は、盤庚が帝位に就き、「河北から黄河を渡って南下し、殷に都を移した」と史書に記載されている。これが紀元前1319年だとすると、今から3300年ほど前のことになる。しかも、殷には長くここに都があったことを考えると、茖北商城は、殷墟に移る前の都城であることは確実である。

 しかし宮殿群は焼かれており、どうして茖北商城が突然放棄されたのかはわかっていない。

 茖北商城の遺跡は発掘後、埋め戻されて、今は一面のトウモロコシ畑となっている。遺跡の一部は、安陽航空学校の飛行場として使われており、飛行機操縦のライセンス取得のため、日本からもやってきている。

殷墟を世界遺産に申請

エン北商城を発掘してきた唐際根博士

 世界的に有名な殷墟は、1928年に最初の発掘が行われて以後、現在までに度重なる発掘が行われてきた。

 1945年から1949年までの解放戦争時期、甲骨文字が彫られた亀甲や獣骨など多くの貴重な殷墟の出土品は、台湾に持ち去られた。「逸品は台北の故宮博物院にあり、殷墟には残っていない」という人がいるが、それはまったく事実に反する。

 殷墟には、八代十二王の陵墓や宮殿址がある。また1939年に武官北地大墓から出土した「司母戊大方鼎」(重さ875キロ)のような大型出土品は、運ぶことができなかった。

 さらに解放後、2001年までに計68回にわたり本格的な発掘が行われた。これによって、多くの宮殿址や陵墓、亀甲などが出土した。例えば1976年に発見された婦好墓は、解放後の考古学発見の中でもきわめて重要な発見の一つに数えられている。

 この墓は竪穴式で、長さ5・6メートル、幅4メートルで、深さは7・5メートルと大きくはないが、盗掘を免れていた。墓の中からは、木棺と16人の殉死者や犬の骨、1928件もの銅器や玉器などの文物が完全な形で出土した。

殷墟から発掘された殉死した武士

 墓の主は、「婦好」といい、甲骨文の記載などから、武丁の正妻であることが判明している。「婦好」は生前、国政に参与し、祭祀を主宰した。また、1万3000の兵を率いて羌との戦争に赴いている。

 現在、殷墟のうち、宮殿区や王陵区を含む200ヘクタールが、世界遺産に申請されている。宮殿区には殷墟博物館や婦好墓、宮殿宗廟遺跡などが整備された。12の大墓と2000以上の祭祀坑や陪葬墓がある王陵区には、祭祀坑展覧館や車馬坑展覧館が完成し、遺跡全体を見渡せる木造の展望台も完成した。

 中国古代史を書き換えた殷墟は、世界四大古文字の一つである甲骨文字の発見地として、また青銅器など古代中国の絢爛たる文明が花開いた都城址として、いままた世界に、その価値を認められようとしている。(2005年2月号より)


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