▼特集 大自然と歴史がいざなう 世界遺産の宝庫――安徽省 |
独特な徽州文化に彩られ 黄山のふもとに位置する徽州大地は、悠久の歴史、豊富な文化の蓄積、重厚な民族風俗、素朴な生活様式によって、特色ある徽州文化をつくりあげた。徽商、徽菜、徽劇、徽派建築、金石、版画、彫刻などで、それらはいずれも中国の歴史文化に重要な位置を占めている。 南部の古村落
紀元前221年に置かれた県は、すでに2200年以上の歴史をほこる。県内にそびえる山々と黄山とが連綿とつづいて一体となり、その昔は外部世界との交流を閉ざしてきた。イ県に「世外の桃源郷」という独特な生態環境をつくりだしてきたのである。 イ県には、いまでも多くの古村落が残されている。県内にある古い民家は合わせて3600軒、古い祠堂は120あまり。なかでも西逓村、宏村は、そうした古村落の代表とされている。
北宋時代に開かれた西逓村は、すでに900年あまりの歴史に彩られている。村落は平坦な地形にあり、しかも船形を呈している。村の近くに西へ流れる河があり、郵便物を逓送する宿駅があったことから、古くより「西逓」と呼ばれてきた。 村落はいまでも合わせて百二十四にものぼる明・清時代の民家や祠堂が、ほぼ完全なまでに残されている。それらの民家は独特なまでの高壁、反り上がったひさし、馬頭牆(階段状の切妻壁)、飾りもようのある窓枠、広間など、徽派建築の特色をじゅうぶんに表している。精緻なつくりの木彫、石彫、レンガ彫刻の芸術的な傑作が民家の随所に施されており、国内外の学者に「中国の古代史と現代史の接点」と称えられている。
宏村は、牛の形をした珍しい古村落だ。南宋時代に開かれて、800余年の歴史をほこる。 古代宏村の人々は、牛のイメージに基づいて村の水系を設計したといわれる。清泉を引いて「牛の腸」をイメージし、それが各家の門前を流れるように工夫した。「牛腸」は「牛胃」と称される村内の池・月塘へと流れ込み、それがまた各家の前をめぐる。それから村外の「牛肚」といわれる南湖に流れ、最後に河と合流するのだ。 村内にある家はいずれも水路で結ばれており、各家からは清泉がサラサラと流れていく。重なり合った建物と、キラキラとした水の光が鮮やかなコントラストを生み出している。まるで絵画のような村落風景を呈しているのだ。 そんな西逓村と宏村は、2000年に世界文化遺産リストに登録された。 屯渓の古い街並み
徽文化に触れるなら、屯渓の古い街並みはぜひ訪れたい場所である。 屯渓の古い街並み「屯渓宋城老街」は、現在の黄山市に位置している。悠久の歴史をほこる商業街で、古くは「屯浦」と呼ばれていた新安江の波止場であった。当時、南宋の都は浙江省の臨安(現在の杭州)にあった。臨安までは、多くの徽州の職人や木材などが徴用されたり、運ばれたりした。職人たちは帰郷したあと、都城建築の風格をまねて、屯渓の地に商業街を建てていった。そのため、この古い街並みが「宋街」と呼ばれるのである。 街並みは、全長1273メートル。魚の骨格状に広がっており、中央を貫くメーンストリートは魚の背骨のようであり、左右に並ぶ大小さまざまな横町は魚のあばら骨のようである。それは表通りと水路、奥の生活区をつないでいる。通りに面した商店は、密接に軒を連ねている。その多くの建物が2、3階建て、白壁、黒瓦の典型的な徽派建築だ。通りに面した店の表は、取りはずしに便利な「排門」が用いられている。また商店と作業場、住宅が一体となっており、古代商家の「前店後坊」(前方が商店、後方が作業場)、「前舗後戸」(前方が商店、後方が住宅)という構造を残している。
現在の屯渓宋城老街では、漢方薬や茶葉などの老舗のほかに、文房四宝、書画の逸品、貴重な骨董品を売る店がかなり多い。 文房四宝とは、中国古代のインテリたちが必需品とした四種の文具――筆、墨、紙、硯のことを指す。安徽省産の文房四宝は、中国では輝かしい名声をほこる。つまり、徽墨、宣紙、歙硯(歙県の硯)、宣筆である。屯渓宋城老街においては、文房四宝を買うだけでなく、一部店舗の作業場で製造工程を見ることもできる。 歙県の牌坊
文房四宝の徽墨、歙硯の産地としても名高い歙県は、徽州地区における「歴史文化の町」である。ここは歴代、名臣や文人墨客を輩出し、わずか明・清時代だけでも542人の進士(科挙の殿試に合格した者)、1531人の挙人(郷試に合格した者)を生み出している。 県城(県庁所在地)の中心部には、明代の大型の牌坊(鳥居形の門)、「許国石坊」がそびえ立っている。明代の大学士だった許国の美徳を表彰するため、建立された。そのため「大学士坊」とも称されている。全国でも唯一の「八本足」をもつ牌坊である。1686年に建立された許国石坊は、彫刻装飾が美しく、徽州石彫工芸の傑作とされている。上部に見える題字は、明代の書道家・董其昌の筆によるもので、書道芸術の逸品とされている。 牌坊は、かつての封建社会における最高栄誉のシンボルである。歙県には、多くの牌坊が残っているが、それは徽商の起こりや発展と密接な関係がある。
歙県の人々は、もとより小さいころから故郷を離れ、商いに行くという伝統があった。商いは短いときには3、4年、長いときには数十年にもわたった。明・清時代になると徽商は大いに栄え、朝廷でさえもこれに対して注目していた。そのため徽商は「商をもって文を重んじ、文をもって役人となり、役人となって商を守る」という発展のコースを歩んだ。各地をさすらい、やがて裕福になった徽商たちは、祖先の名をあげるために、朝廷の許可を得て、故郷に牌坊を建立し、自分の功名を記し、その美名を世に残そうとしたのである。
歙県の県城から6・5キロのところに、棠鰔村という村がある。「棠」とはヤマカイドウのこと、「鰔」とは二本の木の木陰を表し、「棠鰔」とはヤマカイドウの木陰を意味する。村の名前もそこからついた。ここは800余年の歴史をほこる古村落で、村内には七つの牌坊が長くうねるように連なっている。牌坊は「忠、孝、節、義」の順に並んでおり、棠鰔村に住んでいた鮑氏一族が明・清時代に建設したもの。その期間は400年以上にわたるといわれる。 鮑氏は、封建時代の礼法や徳を厳しく守り、儒家の倫理・道徳を伝える一族であった。宋の時代より、この一族からは忠臣、孝行者、貞女が多数現れ、輝かしいまでの大徽商の時代を築いた。各牌坊には、いずれも人を感動させる物語がある。見る者たちに、世の移り変わりのはかなさを思わせるのである。 【安徽省の旅 メモ】 ★天柱山三祖寺そばの「山谷流泉石刻」(摩崖石刻)の中には、宋代の政治家・王安石が三祖寺に逗留したときに詠んだ詩、「水無心而宛転、山有色而環囲、窮幽深而不尽、坐石上以忘帰」(水は無心に流れ、山は色あり あたりを囲み、静けさは尽きず、石に座って帰るのを忘れる)が刻まれている。 ★歙県の「胡開文墨廠」を参観すると、「徽墨」の製作方法がよくわかる。1780年創立の古い工場で、現在生産されている徽墨は十種類・700品目。その製品は、手に軽く、すって濁らず、かぐわしく、硬いこと玉のごとく、すって軋まず、「一点、漆のごとく、万年、真を保つ」(筆跡は何年たっても変わらない)と称えられる。 ★安徽省の省都・合肥は、人文の粋を集めたところ。もとより「三国の故地、包拯のふるさと」のいわれがある。ここの名勝旧跡には、三国の古戦場である逍遥津、教弩台、明教寺、宋代の忠臣・包拯の祠宇(ほこら)――包公祠と包公墓がある。 ★安徽省の名物料理「徽菜」は「中国八大菜系」(八大料理体系)の一つで、南宋時代の歙県(旧徽州府)がルーツ。徽菜の誕生と発展は、徽商の起こりや発展と密接な関係があるといわれる。徽菜は歴史的にも、山の幸の料理をその特色としている。 ★豆腐は、広く好まれる植物性の食品である。著名な医薬学者・李時珍は『本草綱目』の中で、「豆腐の法(作り方)は、淮南の王・劉安に始まる」と記している。現在の安徽省淮南市の八公山は、豆腐の発祥地だとされている。この山の泉水は甘く、職人の技が優れていたため、古くから「八公山豆腐」が世に知られるようになった。 毎年9月15日、劉安の生誕日になると、淮南市による「中国豆腐文化節」が開かれる。そこでの「豆腐の宴」は独特な宴席で、豆腐のうまみが堪能できる。 ★安徽省への旅・おススメの5日間コース。1日目・日本から上海入りし、上海から空路屯渓へ。2日目・黄山へ。3、4日目・九華山へ。4日目の夜に上海へ向かい、5日目に帰国する。(2005年4月号より) |
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