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王衆一=文・写真 |
20世紀で最も重要な大衆娯楽は映画だろう。中国映画は今年、その誕生から百年を迎えた。 この百年間、中国では合わせて7000本の映画が撮られた。これらの作品は、中国人の喜怒哀楽を直接表現している。銀幕の世界と社会の現実は影響し合い、銀幕から出た声やイメージは、中国人の歴史や生活の中に深く浸透した。 中国映画は無声映画からトーキー(発声映画)へ、白黒映画からカラー映画へと移り変わり、啓蒙・娯楽・社会動員など重要な役割を果たした。そして、誕生から百年を迎えた今日、これまでのフィルムからデジタル技術の導入へと転換している。 |
特集1
京劇をルーツとした中国映画
日本の映画館が今日でも「劇場」と呼ばれ、日本映画と歌舞伎の関係が密接なように、中国語で映画という意味の「電影」も、もともと「電光影戯」(電光影絵芝居)を簡略した言葉だ。 中国人は早くから、映画の中にこれまでの豊富な伝統演劇を取り入れていたので、人々は映画という新しい事物を受け入れる際、それを京劇や粤劇(広東省の地方劇)の延長とみなした。そこで、中国人が自分たちの初の映画を撮るとき、京劇から題材を借用したのは自然なことであった。 1905年、日本で撮影技術を学んだことのある北京豊台写真館のオーナー・任慶泰は、外国の短編映画を上映する仕事を長くしていたが、国産の映画を撮って、同胞たちに見せよと決心した。当時はまさに京劇の黄金時代で、彼の視線はおのずと京劇の方を向いていた。そこで、京劇界の名優・譚キン培を招請し、映画に出演させた。同名の京劇の一部分から構成されたこの映画『定軍山』は、中国映画の始まりとなる。 80年代までは、京劇が中国を風靡し、影響を与えたと言える。新興の映画は、その役者や素材を一貫して京劇から提供してもらい、重要な時は京劇の名を借りて自己の影響力を広めていった。 30年代の無声映画からトーキーへと移り変わる過渡期には、映画に京劇の題材が多く借用された。中国初のカラー映画は、48年に撮られた梅蘭芳主演の『生死恨』であり、新中国成立後の初のカラー映画は、芝居映画の『梁山伯与祝英台』(梁山伯と祝英台)だ。
梅蘭芳は『生死恨』の出演に同意した動機について、「行くことができない多くの辺境の地に、映画だと行くことができるから」と述べている。映画の大量に複製できる技術によって京劇を普及させると同時に、京劇の認知度の高さによって社会動員の考えを進めた。そして新中国成立後、これらは国家の行為として実践される。 66年から76年の「文革」時期、京劇の「革命的模範劇」10本とバレエ劇2本が江青(毛沢東の妻)の命によって映画化され、全国各地で上映された。この時代の多くの人は、劇中の歌を完全に歌うことができる。その重要な原因は、京劇は民衆を動員する力を持っており、江青本人が若いとき京劇の一座でそれを勉強していたことにあるだろう。 ローカル映画の副産物である芝居映画は、70年代末に短い繁栄期があった。しかし90年代初めになると、この種の映画とその観衆たちは、ともに衰退に向かう。 90年代初め、『黄色い大地(黄土地)』で有名になった第5世代(注@)の陳凱歌監督が撮った初の商業映画『さらばわが愛/覇王別姫(覇王別姫)』は、京劇と映画の関係を理解する上で重要な意義がある。
まずは、中国人監督が欧米の市場に直面するという大事なときに、やはり京劇を題材にしたこと。そして、監督の父親・陳懐ガイもこの作品の製作に参加したらしいこと。陳懐ーィは「文革」期に「革命的模範劇」の撮影に携わったことがあるので、『さらばわが愛/覇王別姫』の製作に参加することによって、自分の京劇に対する再認識を表したのかもしれない。 最後に、この叙事詩的な映画は、20世紀における京劇の全盛から衰退への歴史を表現しているということ。この作品は、映画としての京劇に対する感謝の気持ちを表すと同時に、伝統的な京劇のファン文化が80年代から解体に向かったため、再び繁栄することはない京劇に捧げる挽歌となっている。寧瀛は『北京好日(找楽)』の中で、胡同(横町)に住む京劇ファンの平凡な生活を表現している。その温かなノスタルジーの雰囲気は、ただ往時の記憶の中だけに存在することを告げている。
いずれにせよ、伝統演劇は中国映画文化のルーツとなり、『梁山伯与祝英台』のように、後に何度も映画の世界で解釈され、日本の『忠臣蔵』や韓国の『春香伝』と同じく、中国の国民的なローカル映画となった。 今年、中国映画は誕生から百年を迎え、映画のルーツを追憶し、京劇と映画の関係を確認するために、新しい『定軍山』と『梅蘭芳』を製作中である。かつて『孫中山』『周恩来』『ケ小平』『魯迅』など、大型伝記映画を監督した丁蔭楠と2人の脚本家が、何度も推敲した『梅蘭芳』の脚本はすでに完成しており、今年の「夏衍映画文学賞」をとった。映画の中では、梅蘭芳の抗日戦争や新中国成立などの歴史的時代の真実および知られざる一面が描かれて、彼の伝奇的な人生や当時の政治環境、複雑な文芸派閥などにも及んでいる。 一方、中影集団(中国電影集団公司)(注A)の重点映画である『定軍山』は、撮影や京劇が好きな数人の若者が、中国初の映画『定軍山』の歴史を知り、その古跡を訪ねるというストーリー。中影集団総経理補佐で企画部主任の史東明氏は、「中国映画生誕百年を記念して、新しい『定軍山』を撮り、中国初の映画作品に敬意を表しました」と話す。 (注@) 1978年入学の北京電影学院のエリートたちのこと。「文革」前に育った第4世代、新中国成立直後に活躍した第3世代、トーキー時代の第2世代と無声映画時代の第1世代に対する言い方。ポスト第5世代は多元化した作風を見せ、第6世代とも言われる。 (注A) 北京映画製作所、CCTVシネマチャンネルなど8会社を傘下に置く、総資産28億元の中国一の映画産業グループ。 ハリウッドに衝撃を与えた武侠映画
もう1つの独特のジャンルは古典的なカンフー映画の要素を取り入れた武侠映画だ。上海で興り、香港や台湾で繁栄した。『ドラゴン・危機一発(唐山大兄)』『ドランク・モンキー酔拳(酔拳)』『神秘な大仏(神秘的大仏)』『少林寺』から『グリーン・デスティニー(臥虎蔵龍)』『HERO(英雄)』『カンフー・ハッスル(功夫)』まで、武侠映画は百年来ずっと、外国人にとっての中国映画のイメージであった。
『グリーン・デスティニー』は数々のアカデミー賞を受賞したが、この作品の監督、アン・リー(李安)は、80年前の映画『火焼紅蓮寺』(紅蓮寺炎上)に感謝しなければならない。1928年に張石川と鄭正秋が撮ったこの映画は、中国映画史上初の武侠映画ブームを巻き起こし、このときから武侠映画は中国映画の「常套兵器」となったのだ。一代また一代と、少年たちはみな武侠映画を見て成長していった。ある統計によると、28年から31年まで、中国では合わせて227本の武侠映画が上映されたという。 『火焼紅蓮寺』に代表される初の武侠映画は、上海でブームになった。そして第2次ブームは、60年代の香港・台湾地区で起こる。キン・フー(胡金銓)監督を代表とする「文人武侠」から張徹監督の男の義理人情を強調する暴力武侠まで、監督の個性がますます突出するようになり、武侠映画は次第に、「チャンバラ」から「拳法」へと移り変わる。 第3次ブームは、83年に中国大陸部で『神秘な大仏』が撮られたことから始まり、『少林寺』によってピークを迎える。第4次ブームは80年代末から90年代初めにかけて起こり、「新編」または「リメーク」された作品が代表となった。『ドラゴン・イン(新龍門客桟)』などの作品は、大陸部と台湾・香港の映画人が協力して撮ったもので、これにより中国語圏の映画はさらに整合された。
90年代初めの大陸部の重要な武侠映画は、何平監督の『双旗鎮刀客』だろう。この作品は、子どもが大人を打ち負かす物語で、黒澤明監督の『7人の侍』の影響を受けているだけでなく、当時の社会意識を巧妙に反映している。 90年代後期には、2つの意味深い現象が現れた。1つは、香港の監督がハリウッドに進出し、武侠の要素がハリウッド映画に新しい活力をもたらしたことだ。たとえば、ハリウッド映画の『マトリックス』はその影響を強く受けている。
中国大陸の著名な監督たちも、この機を逃さなかった。武侠の要素によってビジネスチャンスをつかもうと、香港の武侠映画の名手と手を結び、大作を撮って、中国映画を欧米の主流市場へと進出させた。例えば、第5世代の張芸謀監督の『HERO』や陳凱歌監督の『THE PROMISE(無極)』などである。 武侠映画は中国独特のジャンルだと言え、中国映画早期の民間演技や動きを継承して、映画の最も本質的な部分を体現している。30年代ドイツの表現主義の監督が次々とハリウッドにやって来て、映画の技法の上で大きな活力を与えたのと同様に、90年代以来、中国語圏の武侠映画の監督たちは、文学的・技術的になりすぎてしまったハリウッド映画に新しい活力をもたらした。それによって、映画を本来の姿へと戻したのである。(2005年12月号より) |
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