特集2 スクリーンに映された戦争の記憶 |
この中国版「ラ・マルセイエーズ」は49年に新中国が成立した後、国歌の代わりとなり、その後、国歌に指定された。今日、この『義勇軍行進曲』のメロディーは、すべての中国人の心の中に流れている。 抗日戦争が終わった2年後の47年、8年間の抗日戦争中(1937〜1945年)に起こったある家族の悲劇を表した蔡楚生監督の『春の河、東へ流る(一江春水向東流)』は、80日の連続上映の間、チケットの売れ行きが衰えないという好調な興行成績だった。この作品は、戦争によってすべての人、すべての家庭にもたらされた痛みと変化を描き、観衆の深い共鳴を得た。民族の重みと国家の歴史、そしてストーリーの感化力が入り交じり、家庭の倫理を表したこの映画は、歴史上の出来事を扱った最高水準の国民的な映画となったのだ。 新中国の成立後、抗日戦争は依然として中国映画にとって重要な題材であった。しかし、多くの中国人が今でもよく覚えている50年代初めから60年代末の映画における、日本軍のイメージは、微妙に変化していった。
50年代初期の『小さな密使(鶏毛信)』は1人の子供の目から見た日本軍の残虐さと恐ろしさを表している。50年代中期の『平原遊撃隊』は、最期のあがきをする日本軍の頭目を遊撃隊長が撃ち殺し、仇を討つという物語だ。 60年代初期の『地雷戦』では、地雷に怯えて精神が錯乱した日本軍の頭目が、最後には自らの刀で地雷を割ろうとし、爆発させてしまう。60年代初期の『わんぱく兵チャン(小兵張カツ)』の中に出てくる、わんぱくな少年遊撃隊員は、怒りだした日本軍の頭目をさんざんにからかう。60年代中期の『地下道戦(地道戦)』では、父親を日本軍に殺された遊撃隊長が日本軍の頭目を捕らえ、「目をしっかり見開いて、人民戦争の威力をよく見ろ」と言いつける。
映画の中の日本軍は、もちろんすべて中国人の役者が演じているが、日本軍のイメージは、傲慢で横暴なものから、頭を下げて捕らえられている姿に変わった。これは、中国が日本の戦犯に対して行った改造が成功したことと直接関係しており、戦勝国の自信ある姿をスクリーン上で確立させたのだ。 『中日平和友好条約』が締結された後、中日両国は友好のハネムーン時代に入る。79年に撮られた『櫻――サクラ』では、中国映画で初めてタイトルに外国語が用いられた。中国に置き去りにされた日本の残留孤児の問題に初めて触れ、なおかつ中日の経済や技術協力を歓迎した作品である。しかし、映画の中の日本人役はやはり中国人が演じた。 中日合作の『未完の対局(一盤没下完的棋)』では、中国人役者の孫道臨と日本人役者の三國連太郎が共演し、「正確な歴史観を表した」として、中国の観衆に好評を博した。 『芙蓉鎮』で知られる第3世代の謝晋監督が撮った『乳泉村の子(清凉寺鐘声)』は、再び残留孤児の問題について考え、日本の母親役には栗原小巻が友情出演した。
90年代以降、中国映画で描写される戦争の記憶は、多元で複雑な方向に発展していった。伝統的な政府主導での合作方式は、次第に市場によるものに取って代わられた。中日戦争の映画に出演する日本の若い役者がますます増え、中国人役者が日本兵を演じるというこれまでの状況は根本的に変わった。 また、ある方面では新たな探求も行われ、新しい見方が映画の中に表現された。呉子牛監督の『晩鐘』は、戦場における日本兵の内面を初めて描写した。しかし、このような試みや映画の中で普遍的な人間性を検討しようという監督個人の努力は、国内の観衆には受け入れられなかった。
姜文監督の『鬼が来た!(鬼子来了)』は、監督個人の観点から、改めてあの戦争を解釈しようと試みた。この映画はカンヌ国際映画祭で賞を獲得したが、現行の映画検閲によって、国内では上映できなかった。 児童映画製作所の馮小寧監督の『紫日』(紫の落陽)などは、日本人役者を起用し、映画管理部門の支持も得て、国内での興行成績もよかったが、世界に通用する作品にはならなかった。 最近注目を浴びた『秋雨』は、京劇を学ぶ日本人の女の子と日本を代々の仇とする京劇役者とのロマンスを描いた作品だ。記憶と想像によって織り成された銀幕上の戦争と友好を、中国の主流によってとらえて表現している。(2005年12月号より) |
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