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侯若虹=文 馮進=写真 |
「月落ち烏啼いて霜天に満つ」――日本でもよく知られる「楓橋夜泊」の詩。その詩の舞台である寒山寺は、江蘇省南部の古い都市、蘇州にある。 毎年、大晦日になると、この寒山寺で除夜の鐘を撞こうと、多くの日本人観光客がやってくる。鐘の音は、水の豊かな蘇州の街に流れ、人々を悠久の歴史にいざなう。 蘇州は、唐、宋の時代、大いに栄えた。ここで織られたシルクや精巧な刺繍は世界で珍重された。蘇州で育った崑曲や評弾などの芸能は、今もこの地に息づいている。 そしていまの蘇州は、新築の高層ビルや住宅が建ち並び、工業区や新区に工場が稼働する近代都市の顔をもあわせ持つ。 伝統を縦糸に、近代を横糸にして編まれた布のような蘇州の街は、ここを訪れる人々の心を魅了してやまない。 |
特集1
戦火にも生き残る
長江(揚子江)の中・下流域の南側一帯を「江南」という。この江南の主要都市、蘇州は、春秋時代(紀元前770〜同476年)に、呉の国の都が置かれた。 中国に伝わった仏教は、南北朝時代(420〜589年)に江南の地で大いに栄えた。唐の詩人、杜牧は「江南の春」の中でこう詠んでいる。 千里鶯啼いて 緑、紅に映ず 寒山寺も南北朝時代、梁の武帝の天監年間(502〜519年)に建立が始まった。初めは、「妙利普明塔院」という名だったが、唐の貞観年間(627〜649年)に天台山の高僧、寒山がかつてこの地に逗留したので、「寒山寺」と呼ばれるようになった。当時、寺の中には、大きな鐘があった。その鐘の抑揚のある響きは、遠くまで届くので有名だった。
唐の開元年間(713〜741年)、詩人の張継がこの地を通りかかり、楓橋という橋の辺りで泊った。張継は、字を懿孫といい、襄州(現在の湖北省襄樊市)の人である。そして有名な「楓橋夜泊」を詠んだ。 月落ち烏啼いて 霜天に満つ 創建以来、約1500年。いくたびも王朝が交代し、戦火や天災をくぐってきた寒山寺は、興廃を繰り返したが、線香の煙は絶えたことがなかった。 寒山寺が廃寺とならなかったのは、その地理的環境も無関係ではないだろう。寒山寺は、蘇州古城の西にある楓橋鎮にあり、寺院は東側にあって西を向いて建っている。古い運河に沿って建てられ、楓橋のたもとにある。門は昔の街道筋に面していて、約5キロ行けば、蘇州城の西のショウ門に達する。
南北の交通の要道を扼しているので、北上して金陵(南京)へ行くにも、南下して浙江、福建に向かうにも必ずこの道を通らなければならない。南北を往来する人の流れは、絶えることがなかった。 全盛期の寒山寺の面積は非常に広く、巷間では「馬に乗って山門を見る」と言われた。また当時、北方から来た旅行者の多くは、まず寒山寺に遊び、後に姑蘇城に進んだという。運河を往来する船の客は、目で遥か遠くに、高くそびえる寺の塔を見、耳で寒山寺の鐘声を聞くことができたと言われる。 寒山寺の普明宝塔に登ると、北京と杭州を結ぶ京杭大運河と、それに架かる楓橋を眺めることができる。この古い運河は、今日もなお、船舶の往来が頻繁だ。こうした情景を眺めていると、人は思わず、張継が「楓橋夜泊」を詠んだ当時の情景を遥かに思いを馳せずにはいられないのである。 「夜半の鐘声」は午前4時
張継の詩にある寒山寺の鐘は、唐代に鋳造されたものだが、ずっと昔になくなってしまった。明代の嘉靖年間(1522〜1566年)に、もう一度、鐘が鋳造され、鐘楼も建てられた。しかし、この明代の鐘も再び失われる。 一説によると、鐘は戦火にあって日本に流失したとも言われる。この話を聞いた日本の僧、山田寒山は、日本各地を訪ねて鐘を探したが、見つからず、1905年、伊藤博文とともに発起人となり、寄付を集めて梵鐘を鋳造することを決めた。 完成したその鐘は1914年、寒山寺に寄贈された。現在、寒山寺の大雄宝殿に納められている青銅製乳頭鐘(唐代の鐘のキツ製品)がそれで、鐘の表面には、伊藤博文が書いた銘文が刻まれている。 現在、寒山寺の鐘楼に懸けられている大鐘は、清の光緒32年(1906年)、江蘇巡撫であった陳キが寒山寺を再び修復した時に鋳造されたものだ。鐘の高さは1.3メートル、口径1.24メートル、重さは約2トン。この鐘を一度撞くと、その余韻は42秒間も響き続ける。
「楓橋夜泊」の詩はあまりにも有名だが、この詩に対して昔から、多くの文人墨客がさまざまな疑問を提起してきた。例えば「夜半の鐘声」。これは何を指すのだろうか。 この疑問に、寒山寺の果鴻法師はこう説明した。 「寺には昔から、朝に鐘を撞き、晩に太鼓を叩くという決まりがあります。この詩の第1句の『霜天に満つ』は、秋の深まったころを意味しています。この季節に霜が降るのは、夜半の2時前後です。明け方の4時は、朝の鐘を撞く時間です。ですから張継が『夜半の鐘声』と詠んだのは、実は寒山寺の朝の鐘なのです」 昔は、運河の辺りは広々としていて、高い建物はなかったようだ。寒山寺の鐘楼はかなり高い建物なので、その鐘声は遠くまで届いたことだろう。 寒山、拾得も住む 普通、寺院の大雄宝殿には、釈迦像の背後に南海観音が供奉していることが多いが、寒山寺では釈迦像の背後に『寒山拾得図』の石刻が立っている。その図の中で、寒山、拾得の2人は、胸をはだけ、髪は乱れ、顔には喜びの表情を浮かべている。
寒山は文殊菩薩の、拾得は普賢菩薩の化身といわれ、民間では「睦みあう二仙」と呼ばれているが、寒山も拾得も、実在の人物である。寒山は、天台翠屏山に隠棲していた高僧で、唐代の貞観年間にこの寺に逗留した。そのため後に、寺の名が「寒山寺」と呼ばれるようになった。 拾得は天台山国清寺の豊干禅師に拾われた孤児だったので、その名がついた。寒山と拾得は、7世代にわたる仇敵同士の家に生まれたが、豊干禅師が2人に悟りを開かせ、ついに2人は仲直りした。 その後寒山、拾得は、朝も夕べもともに暮らし、親密な仲となった。そしてついに2人は仏門における高僧となったのである。 さらに寒山寺には、拾得がその後、日本に渡って経を説いたという伝説も残っている。日本には拾得寺という寺院もあり、寒山寺と日本の深い淵源を感じさせる話である。 中日の民間交流に貢献
秋爽大師の住む方丈の書斎には、大きなテーブルがあり、その上に筆、墨、紙、硯が置かれている。「忙しい仏事や公務の暇をみて、書と絵を楽しむのが一番好きです。私の師は、先代の寒山寺の住職、性空大師です」と秋爽大師は言った。 秋爽大師は、梅、蘭、竹、菊を好んで描き、時には人物を描くこともある。また彼は、仏教、特に禅宗や歴史の書籍をよく読む。方丈の書斎には、珍しい記念写真が多数、並べてある。寒山寺と日本の友人との交流を写したものも少なくない。 「仏教は、慈悲と平和、平等、友好を重んじる宗教です。私たちは中日両国の仏教の交流が絶えず拡大し、深まるよう望んでいます。中日の民間交流を促進するものであれば、私たちは喜んでそれを行います」と秋爽大師は言った。
実際、寒山寺では毎年の大晦日、除夜の鐘を聞きながら新年を迎える祝典を行っている。この行事は1979年に、日本の藤尾昭さんが発起人となって始まった。それから二十数年、日本からだけでなく、中国人や各国の観光客も参加するようになった。 寒山寺の108つの鐘音を聴きながら、人々は合掌し、心に決めた願い事を祈念する。その願い事はおそらく平和であろう。平和こそ人々がもっとも心を込めて祈るものではなかろうか。(2006年1月号より) |
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