特集3          見直される絹と刺繍

蘇州の絹で天下を被う

鎮湖郷はどの家も、女性はみな刺繍ができるので「10万の刺繍娘」と称えられている。ここは蘇州で有名な刺繍の里である

 蘇州は東方の美女、絹は彼女の羽衣、蘇州はこの世のパラダイス、絹はパラダイスの彩雲――と、中国では言われる。

 少なくとも4700年前、太湖流域の人々は、すでに蚕を飼い、生糸を取って絹を織っていた。春秋戦国時代(紀元前770〜同221年)には、この地域の養蚕業は十分発達し、主要な産業となった。

 唐宋時代には、蘇州は中国の絹生産の中心地となり、献上する絹の主要生産地の一つとなった。宋、元、明、清の時代には、蘇州に応奉局、織造局、織造府などの機構が設立され、絹の生産を独占的に管理した。明清時代の皇帝一族が使った高級絹製品は、大部分、蘇州の絹職人の手になるものだった。

蘇州市の第一絲廠では、観光客のために伝統的な手工業による絹織物の製作工程を展示している

 16世紀から18世紀にかけて、蘇州シルクの手工業の作業所は急速に発展した。当時、「東北半城 万戸機声」「日出万綢 衣被天下」と言われた。蘇州の街の東北部は、どの家も絹を織る機の音が響き、一日に絹を大量に生産して、その布で天下を被うことができるほどだ、という意味である。

 蘇州の絹は国内外に売られ、遠くからも商人がやってきた。蘇州もシルクロードの出発点の1つだったのである。

肌触りの良さで売れる絹

蘇州の太湖風景区はレジャー産業が盛んになり、太湖周辺の農家は急に豊かになった。どの家もきれいな建物を建て、観光客は家の中で食事をしながら太湖を観賞できる

 蘇州の呉江県にある古い鎮、盛沢鎮は、清代には「布を織る機械の杼の音が夜通し響く」といわれ、絹を生産・販売する大きな鎮であった。ここには今でも、昔の繊維業の「公所」が中国で唯一残っていて、それは1840年に建てられた「先蚕祠」である。

 先蚕祠の屋根のついた大きな門には、精巧なレンガ彫刻が施され、大殿には、黄帝や炎帝神農氏、蚕花娘娘(蚕の女神)が祭られている。祠の中には彩色豊かな舞台があり、毎年、農暦(旧暦)の「小満」(24節気の1つで、陽暦の5月21日ごろ)には、3日間、芝居が演じられ、大いに賑わう。生糸が市場に出て、絹の業界が忙しくなる時期が間近に迫っているため、養蚕農家も絹の商人も、ここで休んで、英気を養うのだ。

 いまでも、農暦の「小満」と「臘月三十」(旧暦の12月30日)には、絹の産業に従事する多くの人々がやってきて、蚕の神を祭り、参拝している。「小満」のころは、蚕が3回目か4回目に眠っているころで、その後の繭を作るのにきわめて重要な時期に当たるからである。

 このシルクの里は、今も繁盛している。現在、盛沢鎮には百以上の紡績工場があり、紡績品を商う鎮のいくつかのストリートは、商店が軒を連ねている。

蘇州刺繍研究所の「蘇州刺繍」は、蘇州の伝統的な土産物の中で最高の品である

 昔とは違って、ここで生産されている生糸や絹は、多くの紡織産品の一部に過ぎない。大量に取引されているのは、生産コストが低く、日常生活で使うのに便利な繊維製品である。

 たしかに、現在の各種の新しいタイプの繊維製品は、色彩や図柄、価格の面でも、また皺になりにくいことでも、絹に比べて優れている。シルクは、服を作っても寸法に狂いが生じやすく、洗うと縮み、皺になりやすい。だからアイロンをかけなければ着られないなどの性質があり、多くの人は尻込みしてしまう。

 しかし、シルクと皮膚が触れ合ったときの、あのすべすべした感覚は、誰も否定できない。とりわけ近年、生活水準が向上するのに伴って、「衣」に対する人々の要求が次第に変わり、華麗なものから快適なものを求めるようになった。絹に対する需要はますます大きくなっている。

 蘇州の絹織物産業は、この点についてずっと努力を重ねてきた。呉江絲綢集団有限公司は、1998年末から中国科学院と共同で、「皺ができ難いシルク」などの多くの課題について研究を行い、すでに大きな進展を見ている。

 彼らはまた、生糸と大豆繊維を使った混紡シルクの開発にも成功し、これはすでに大量生産を始め、輸出している。この製品は、カシミヤのような柔らかな手触りで、生糸のような柔らかい光沢があり、かつまた酸やアルカリにも耐え、吸湿性がある。

 蘇州の東呉絲織廠も、蘇州大学と協力して、生糸と綿、毛、人絹などを混紡した。この製品は、絹の生地の優れた所を保ちつつ、性能を改善している。

周辺の農村で作られる刺繍

蘇州・呉江県盛沢古鎮にある先蚕祠は、1840年に建てられた

 蘇州の刺繍は、絹と並ぶ蘇州文化の宝であり、その技術は2000年以上の歴史がある。三国時代(220〜280年)、呉の国の主、孫権の趙夫人は、刺繍に優れ、当時の人々から「針絶」(比類なき針の使い手)と称えられた。

 宋代になると、蘇州は「どの家も刺繍をしている」ようになり、明代の蘇州刺繍は「精緻、細密、雅、清らか」というこの地方の特色を形づくっている。清代になると、蘇州刺繍(蘇繍)はますます発展し、その図柄は秀麗で、色彩は典雅、針の運び方は生き生きとし、「蜀繍」(四川の刺繍)、「粤繍」(広東の刺繍)、「湘繍」(湖南の刺繍)と並んで中国の四大刺繍の一つに数えられるようになった。

 蘇州の刺繍博物館は、有名な園林である環秀山荘の傍らにあり、園林式の建築である。ここには古代から明清までの刺繍と近代の刺繍の逸品数百点が陳列されていて、系統的に蘇州刺繍の発展の歴史を理解することができる。

 刺繍博物館の中では、女性の職人が刺繍の針を刺す工程を近くから観賞できるようになっている。非常に素晴らしい技術だが、この道十数年から20年の中年女性の職人ばかりだった。蘇州の若い女性は、テンポ速い現代では、座ったままで我慢強く刺繍針を刺す仕事に、耐えられなくなっているようだ。

 しかし、蘇州の刺繍が絶えてしまう心配はない。蘇州周辺の農村で、刺繍は依然、盛んだからだ。蘇州刺繍はもともと、ここが発祥の地で、現在も万を数える娘さんたちが刺繍の仕事をしている。

 だが、彼女らの作る刺繍製品は、昔とは同じではない。以前は、エプロンや布団表、枕などの生活日用品に飾りの刺繍をしたものだったが、今は現代風の装飾画にとって替られた。

 鎮湖郷の刺繍品ストリートの、両側に並んだ店で売られているのは、各種各様の刺繍装飾画である。それぞれの店の中では、女性たちが現場で刺繍をしている。商店はみな、付近の農民が営んでいて、店に並んでいる刺繍製品は村の女性たちが作ったものだという。

 刺繍品ストリートの後に馬橋村がある。村は300戸。道端に座っていた老人によると、どの家でも刺繍をしていて、ほとんどの仕事はストリートの商店から発注されたものだ。

 そのうちの1軒を訪ねると、数人の女性が刺繍しているところだった。彼女たちは隣同士で、いつもいっしょに仕事をしているのだという。「いっしょにやっているので、退屈じゃない。刺繍するのも速くなる」と彼女たちは言った。

 40歳になる蘇建峰さんも馬橋の人である。彼は奥さんの王桂芳さんと刺繍品のストリートで店を開いている。奥さんが装飾画を刺繍し、もともと大工だった蘇さんが額縁を造る。2人の協力で、商売は繁盛している。

 夫婦には14歳と12歳の2人の娘がいる。王さんは「私がこの娘ぐらいだったときには、もう刺繍ができました。家計を助けなければならなかったのです。でも今、私は娘たちによく勉強させたいと思っています。その方が将来、見込みがありますから」と言った。

 当然のことながら、農村で作られた刺繍の装飾画は、博物館の逸品とは比べようもない。しかし、それには巨大なマーケットの需要がある。普通の庶民が刺繍製品で家の中を飾ろうという時、やや粗製ではあるが価格の安い刺繍の方が、人々の消費水準にマッチしている。伝統的な手工芸品には、これから成長する土壌があるといえる。


愛知万博に華を添えた蘇州ウイーク

寒山寺の鐘の複製品を愛知万博に寄贈した閻立・蘇州市長(右)。左は愛知万博の渡辺泰造・日本政府代表(写真・東京支局)

 昨年開かれた愛知万博でも、「蘇州」が注目を集めた。

 蘇州市政府と寒山寺は、寒山寺の鐘の複製品を特に愛知万博に寄贈し、蘇州ウイークの開幕式では、寒山寺住職の秋爽大師がこの鐘を撞いて幸福を祈願した。

 蘇州ウイークでは、蘇州のシルクと刺繍も人気を呼んだ。中国館の会場には、絹織物の製作工程が展示され、機織の実演も行われた。また刺繍芸術家の鄒英姿さんによるシルクロードをテーマにした作品が注目を集めた。

 また、蘇州伝統の崑曲も披露され、会場は濃厚な江南の雰囲気に包まれた。

 蘇州市の閻立市長は「蘇州市は2つの顔を持っています。1つは古い文化を蓄積し、内に秘め、風景の美しい観光都市としての顔、もう1つは経済に活力があり、変化の速い、近代化された都市としての顔。日本の企業の投資もブームになっています」と話していた。(2006年1月号より)




 
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