|
|||||||
東京支局 林崇珍 王浩 沈曉寧=文・写真 |
いま、日本に、どれほどの中国人が住んでいるか、ご存知ですか。なんと50万人以上が住み、生活しているのです。 その大半は、1972年の中日国交正常化後、とくに中国の改革・開放以後にやって来た人たちです。 戦前から日本に住んでいる「老華僑」に対し、彼らは「新華人」と呼ばれています。 「新華人」は日本社会のさまざまな分野で活躍しています。大学の教授や会社の社長、弁護士、記者など、社会の第一線で働いている人も少なくありません。 彼らはさまざまな困難を乗り越えて、日本社会に根を下ろし、日本の人々と共生しながら、たくましく生きています。 犯罪に走る者もいますが、50万人の中のほんの一部なのです。 「新華人」の大多数は、日本の発展に貢献し、中国と日本を結ぶ、人の架け橋の役割を果たしています。 |
特集1
範国輝さん:武術の教えを弁護士活動に生かす 範国輝さんは、日本で中国法律と渉外法律業務の研究に専念し、10年近く熱心に勉強して1999年、日本に登録されている外国法律事務所の弁護士になった。 2000年、範さんはホンダ(本田技研工業)の代理人として、ホンダと中国・広州の自動車企業との提携交渉に参加した。ホンダの四輪北米課の上野洋一郎課長は、その当時、交渉の席上、中日双方がそれぞれの利益のために顔を真っ赤にして言い争った場面をいまもありありと覚えている。 「当時、私たちは、中国の政策と考え方が分からず、ときには会議で、中国側の一部の提案を誤解したこともありました。中国側もそうでした」と上野課長は回顧する。 そういうことが起こるたびに、両国の事情をよく知り、中国語と日本語に精通している範さんが、双方に、相手の考えを辛抱強く説明し、交渉は順調に進んだ。 「範さんは『相手の人格を攻撃してはいけない。論争はみんなが一致点に到達するために行うのですから』と注意してくれた」と上野さんは言う。交渉は、最終的に双方とも満足できる結果に達した。 「範さんといっしょに仕事をしたことは忘れられません。彼は人と仲良く接し、いつも公明正大の気風を感じさせます。交渉が難しい場面に陥っても、彼がいれば、私は安心できました。機会があれば、再び範さんといっしょに仕事をしたいものです」と、上野さんは言っている。 範さんは、クライアントからの信頼を得ただけではなく、事務所の同僚たちからも尊敬されている。範さんと6年間いっしょに仕事している山口孝太弁護士の目から見ると、範さんは法律業務に精通し、情熱的で弁がたち、活力に溢れた弁護士である。
「範弁護士は2、3日、寝ないでも平気です。彼の勤勉な精神に敬服しています。先輩としての彼は、多くの難問の解決に手助けをしてくれました。日本人の気持ちが分かる中国人です」と山口弁護士は言う。 範さんといっしょに仕事をしたことのある王子タック株式会社営業本部の片山智之さんは、今も範さんの仲の良い友達だ。範さんの公正で率直な姿勢を称賛している。 「範さんがある法律事務所に勤めていた時、事務所に勤める事務員の利益のために、上司と言い争ったことを覚えています。このように正しいことを主張する行為は敬服すべきです」 これまでに範さんは、野村證券、ホンダ、三菱、東芝、日産などの日本大手企業の法律事務代理人をしてきた。仕事がうまくいっていることについて彼は、その成功が、幼いころから鍛錬してきた武術と関係があると言う。 「中国武術は私に強靭な体格と旺盛な精力を与えてくれたうえ、さらにどのように人間になるべきかを教えてくれたのです」 厳浩さん:社員とともに働く上場企業の社長 厳浩さんが中国の公費留学生として日本に来たのは、18歳の時だった。博士課程在学中に、ある製薬会社のために薬品の治療効果の臨床統計が、日本ではベンチャービジネスになることを発見した。そこで、数人のクラスメートといっしょに、新薬の臨床試験にかかわる業務を行うイーピーエスを設立した。 現在、厳さんの率いるイーピーエスは、ジャスダックに上場し、この分野をリードする企業となり、中国、東南アジアにその業務を展開している。会社の急速な発展は、クライアントを尊重することと、社員全体が心を1つにして協力した賜物だと、厳さんは考えている。 イーピーエスの人材開発室に勤めている島津真知子さんは、2000年に就職したとき、面接を行ったのは社長の厳さんだった。「その時、厳さんからの質問の中で、彼が私の書いた就職希望書を事前にしっかり見てくれていると感じました。それは、私を尊重してくれていることだと思いました。社員を尊重する上司といっしょに仕事ができるのは幸いなことです。当時は、会社の規模はそれほど大きくなかったけれど、私はずっとそのまま残って働きたいと思いました」と彼女は言った。
仕事のとき厳さんは、傍らに立って命令を下すのではなく、進んでみんなといっしょに仕事の中に溶け込み、他人の意見に謙虚に耳を傾ける。イーピーエスの社長室シニアマネージャーの今村久雄さんは「社長として、厳さんは会社の発展に高遠な目標と明確な企画を持っています。彼といっしょに働くと、いつも一種の開拓精神と探求精神の活力を感じます」と言った。 会社の活力を長期間、維持するために、厳さんは、50歳になったら会社を、もっと能力のある人物に渡して経営してもらおうと計画している。だがこの考え方に、イーピーエスの社員たちは「私たちは反対だ」と笑いながら言っている。 蒋崢さん:叱責を成長の糧とした放送記者 1989年、蒋崢さんは日本に派遣された研究者の父母とともに、上海から東京の土を踏んだ。 大学生のころ、池袋で行われた外国留学生の講演活動に参加した。そのときの発言が、日本短波放送の番組プロデューサーの武藤直路さんに認められた。これがきっかけで、蒋さんは毎週、放送局に行き、『こんにちは、にっぽん アジアは友だち』という番組に録画出演し、日本での自分の体験を語った。 蒋さんは、武藤さんの言動から知らず知らずの内に影響を受け、メディアの仕事にますます興味を持つようになった。こうして、武藤さんは、蒋さんの「恩師」であり、メディアの道に入るガイド役となったのである。 蒋さんは大学を卒業し、日本テレビに採用された。彼女は日本テレビでは初めての中国人社員であった。2年間の訓練を経た彼女は、森首相の「番記者」に任じられた。このとき彼女は、もう1人の「恩師」である上司の呉文彦さんと出会った。 呉さんはよく蒋さんに、実用的な仕事の仕方や人付き合いの経験をたくさん伝授し、首相の動向をいつでもつかんでいるようにと注意した。 しかし、ある日、蒋さんは、空いた時間を利用してほかのニュースを取材していて、予定の時間に遅れてしまい、首相の行動についていけなかった。このため呉さんから、こっぴどく叱られた。 「あの時の叱責はまるで暴風雨のようで、骨身にしみました。恥ずかしくて穴があったら入りたい気持ちでした」と言う。 その年のクリスマス、彼女は呉さんに心からの「謝罪文」を書いて渡した。その後、蒋さんは2度と同じ過ちを犯すことがなかった。何回も上司に誉められもした。
蒋さんは、呉さんから絶えず「厳しい指摘」を受けたからこそ早く成長することができた、こうした「厳しい指摘」は、彼女にとって一生の財産である、と考えている。 「番記者」の仕事は厳しい。同僚の結婚式に出席しているとき、「森首相が予定外の外出をし、銀座で誰かと会食している」と突然、上司からの連絡があって、飛び出したこともある。 「その日は大雪でした。私はチャイナドレスにコートを引っかけただけで、レストランの外で3時間も立っていました。やっと出てきた森首相は、車に乗って行ってしまい、結局、何も起こらなかったのです。翌日は風邪で、初めて休んでしまいました」 しかし、うれしいこともある。2000年10月、中国の朱鎔基総理が日本を訪問した。森首相は朱総理に「ご存知でしょうか。わたしの番記者の中に、中国出身の記者が1人いますよ」と言いながら蒋さんを朱総理のそばに招いた。朱総理と握手した瞬間、蒋さんは感激で、さすがに頭の中が真っ白になった。 「日本テレビの記者になれたことにとても満足しています。これからも努力して、もっと速く、もっと正確なユニークなニュースを報道したいと思っています」。蒋さんは録画したテープを編集しながらこう言った。 姜維さん:中日間のビジネスを取り次ぐ 1980年、軍人だった姜維さんは除隊し、郷里の大連に帰って来た。大連市から優先的に仕事の割り当てがあるはずだったが、8カ月待っても仕事がない。そこで姜さんは、以前、身につけていた写真の技術を使って、個人経営の写真屋を始めた。 妹がくれた400元で国産カメラを買い、大連動物園の入口で店開きした。商売は大当たりし、収入も多かったが、1983年、個人経営者に対する誹謗中傷が全国的に広がり、姜さんも営業許可書を当局に取り上げられてしまった。 しかし、姜さんは、これにめげず個人経営を続け、1984年、政府の許可を得て「光彩実業有限公司」という香港との合弁企業を創業した。これは、改革・開放後の中国で、初めて正式に登録された私営企業である。そしてこの企業は、開発投資、運輸、製薬、酒造などを行う企業集団に発展した。 1989年、姜さんは、日本の自民党から招かれて、中国の私営企業家代表団の一員として日本を訪問した。 日本に関する認識が深くなるにつれ、姜さんは、中日両国間には、これから協力できる分野が広がっているのに、互いの理解が足りないと感じるようになった。そこで、自分は日本に留まって、中日両国民の架け橋になろうと決心した。東京に「中国光彩事業日本促進会」を立ち上げたのである。
2005年7月、村田製作所が中国の深センで、4900万米ドルを投資して工場をつくることになった。しかし、中国での手続きがよく分からなかったため、2006年5月に操業を始める計画は実現が難しくなった。深センの日本商工会から依頼された姜さんは、斡旋に乗り出した。 彼は3回も東京から深センへ飛び、調査と協議を行った。深センに二十数日間も留まったこともある。北京の関係部門と連絡をとり、深セン側と日本の投資者が交渉する場を何回も設け、ついにこのプロジェクトを、計画通りに進めることで合意に達したのだった。 姜さんは、日本で暮らしてもう17年になる。日本の有名企業が中国で投資したいということから、1人の普通の中国人が日本で仕事を捜したいということまで、姜さんは、頼まれれば全力で相談に乗り、助力する。忙しいときは、1週間に4回も、中国と日本の間を往復したことも、7日間で6つの都市を飛び回ったこともある。真夜中に、力を貸して欲しいという電話もよくかかって来る。 こんな姜さんに、妻の高原潔子さんは「もちろん主人があまり出張して欲しくない。けれども彼が夢のために一生懸命働き、苦労している姿を見ると、邪魔せずに、黙って理解し、支えてあげたいと思います」と言っている。 呉越華さん:日本で中国の歌の本を出版した歌手 呉越華さんが日本にやって来たのは1992年のことである。もともと声楽を学んだ呉さんは、卒業後5年間、杭州師範大学の音楽学部で教師をしていた。「教師の仕事と生活は安定しているのですが、私はもっと精神的に豊かになりたいと思ったので、国を出たいと思うようになりました」と呉さんは言う。 姉が1年前に日本に行っていたので、呉さんはいくつかの選択肢の中から日本へ行くことにした。
日本で十数年、中国人の歌手として、リサイタルを開催したり、普通の日本人に唱歌を教えたり、呉さんの生活はいろいろな変化があった。そして、最近、彼女の編集した『覚えておきたい 中国の歌』という本が、わずか1カ月で1万冊以上売れ、彼女は非常に喜んだ。 呉さんのように、外の世界を見てみたいという気持ちから出国する「新華人」は多い。彼らは胸一杯に理想を抱いて日本にやってきて、一生懸命努力し、日本の社会で奮闘している。そして少なからぬ「新華人」がだんだんと自分自身の本当の価値を探し当てるのだ。
蕭石琴、謝利輝夫妻:暮らしに慣れたが、子どもの教育に悩む 多くの「新華人」にとって、日本に着いたその日から、いかにして日本の社会に溶け込み、日本人とうまく付き合ってゆくかが大きな問題である。中国と日本のカルチャーギャップや生活習慣の違いから、職場や家庭で悩みを抱える「新華人」も少なくない。 蕭石琴さんは、富士通のシリコンテクノロジー研究所に勤め、主に半導体の技術開発を担当している。中国で材料学を学んだ彼は、日本に留学し、そのまま日本に留まった。 日本の会社で仕事する中で彼がもっとも強く感じたのは、中日の文化的なギャップだった。「例えば、中国の公司は個人の創造力を重視し、職工に考えがあればすぐに提起します。しかし日本の会社では、もっと集団の協力を重視し、意見はグループの意見として提出する場合がほとんどです」と彼は言う。 日本の会社に入ったばかりのころ、蕭さんはこの面でトラブルに遭った。自分の意見を提起したのに、上司は不機嫌である。同僚たちと話してみて、やっとその理由が分かった。それ以後、仕事の中で蕭さんは、次第に会社の環境に適応するように絶えず自分の姿勢を改めた。 「日本人と中国人は、問題を取り扱うときに多くの違いがあります。中国人として、精神のもっとも核心にある部分はやはり『中国』です。だからどれだけ日本にいても、私は絶えず環境に適応する必要があるのです」と彼は言う。
一方、蕭さんの妻の謝利輝さんは忙しい毎日を送っている。2年前、1家は東京都あきる野市の新居に引っ越したが、謝さんはこの市の児童福祉施設に就職した。 性格が明るく、仕事に熱心な彼女は、同僚たちに受け入れられた。あるとき、施設で、謝さんが全員に餃子の包み方を教えることになった。80人以上の人がいっしょに餃子の包み方を学んだが、本当に賑やかで、謝さんは、忙しかったけれど楽しかった。 またこのほど、あきる野市は中国語学習クラスを開設しようとし、日本に来る前は小学校の国語の教師だった謝さんが、市内に住んでいるのを発見し、彼女に先生になってほしいと積極的に頼んできた。こうした活動を通じ、謝さんは、多くの日本の友人と知り合った。 日本での生活は10年を超えたが、蕭さんと謝さんの1家の生活様式は、依然として中国の習慣を保っている。毎年、春節(旧正月)になると、彼らは日本の友人たちや近所の人たちを家に招く。そして一家を挙げて楽しむのだ。 日本での彼らの生活は豊かだが、蕭さんには心配もある。その中でもっとも頭の痛い問題は、子どもの教育である。 彼らには2人の子があり、息子は高校1年、娘は小学校に上がったばかりだ。あきる野市の近くには中華学校はないので、正規の中国語教育を受けることができない。 「中国人の家庭ですから、子どもたちに中国語と中国の知識を身につけさせたい。けれども今は、私たち自身で子どもたちを教えることしかできません。しかも仕事が忙しくなれば、かまってはいられないのです。中国の同年齢の子どもたちに比べると、我が子の中国語の基礎知識や運用能力はかなり劣っています」と蕭さんは言う。
子どもたちに中国語を学ばせるため、蕭さん1家は、家庭内では必ず中国語を話すことにしている。休暇の時には、子どもたちを連れて帰国し、彼らに祖国の環境を体験させてもいる。 蕭さん1家のように、子どもの教育問題は大多数の「新華人」にとって最大の悩みになっている。子どもたちに中国の伝統を保持させるのか、それとも個人の好みに任せるのかは、難しい選択である。日本には、中華学校は少なく、入学定員にも限りがある。「新華人」が子どもに中国語による教育を受けさせたいと思っても、かなり難しいのが現実なのだ。(2006年2月号より) |
本社:中国北京西城区車公荘大街3号 人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。 |