長安城の大門の扉が開いた

三百年にわたる長安の盛衰

唐代の墓葬から出土した副葬品の「彩絵描金天王俑」

 618年、太原の留守、李淵は、兵を挙げて隋の王朝を滅ぼした。彼は馬に乗って隋の都の大興城に入り、鞭を揚げて、ここを都と定めた。李淵は後に唐王朝を開いて高祖となり、都は長安と呼ばれた。

 それから約百年、長安は、唐の玄宗皇帝の時代に、当時世界でもっとも栄えた都市の一つに発展した。面積は84平方キロ、百万人以上の人々がここに暮らしていた。

 36キロに及ぶ分厚い城壁が、三つの宮殿と108の居民区をぐるりと取り囲んで、安全を守ってきた。城内の女性たちは美しく着飾り、新しい髪形やあでやかな衣装を競い合った。

 毎日のように、遠くヨーロッパや中東、アジアから使節や商人、芸人、僧侶、留学生らがやってきて、長安城の12カ所の城門を出入りした。彼らは珍しい鳥や動物、香料や宝玉から宗教や科学技術、異国情緒まで携えてきた。そして精巧で美しい磁器や柔らかなシルク、馥郁とした茶葉から忘れえぬ見聞を持ち帰って行った。

「東方のビーナス」と呼ばれる唐の菩薩像

 唐の詩人、元シンは、「估客楽」の中で、「党項(タングート)の馬、吐蕃の鸚鵡、炎州の燃えない石綿の布、蜀(四川)の錦など、世界のめずらしいものはなんでも、長安城内で売られていた」と描写している。

 長安城の北の高地に、雄大な含元殿があった。唐王朝の皇帝の多くは、ここで即位の大典を行った。新たに即位した皇帝は、身に華麗な竜袍(竜を刺繍した長着)をまとい、含元殿の玉座に座る。含元殿前の広場で文武百官が叫ぶ「万歳」の声が、耳にこだましたであろう。

 含元殿の左右には「翔鸞」「棲鳳」の二つの高い楼閣が東西方向に伸びるように建ち、含元殿全体が翼を展ばして飛び立とうとする一羽の鳳のように造られていた。

 長安城の中は、亭や高殿、楼閣が朝陽に淡く金色に輝き、大通りの車馬の往来は盛んで、朦朧とした朝霧が遠くの終南山を神秘のベールの中に覆い隠していたであろう。

西安出土の唐代の貴重な文物「双竜柄白磁壺」

 「開元の治」といわれる治世をした玄宗は、音楽家でもあった。興慶宮の沈香亭で、玄宗は楽人を率いて『霓裳羽衣の曲』を演奏し、自ら鼓を打ち、笛を吹いた。曲の演奏にあわせて楊貴妃が、孔雀の羽を一面に縫いつけた薄絹の衣を翻して踊りだした。それは、天上の彩雲を彷彿とさせた。

 民間では毎年、旧暦の3月3日、長安城の南にある曲江池のほとりで「女児節」が催された。朝廷の官吏も庶民もきれいに着飾ってやって来て、花を愛でた。人々は、木や角で作った杯に酒をいっぱい入れて、曲江の上流から流す。下流では、文人墨客が流れてくる杯を競って拾い、一杯の酒を飲むたびに一首の詩を作るのが決まりだった。これが「曲水の宴」である。

 唐の詩人、杜甫は詩「麗人行」の中で、このときの情景を「3月3日 天気新たなり 長安の水辺 麗人多し」と描いている。玄宗と楊貴妃もここに来て、紫雲楼の楼上に立ち、民とともに楽しんだと伝えられている。

 残念なことに、唐の長安城の繁栄は、300年で終わった。904年、河南節度使だった朱全忠(朱温)は唐に叛き、唐の昭宗を洛陽に閉じ込め、長安の宮廷や邸宅、寺院、楼閣に火をつけて徹底的に焼き尽くした。907年、唐王朝は滅亡し、長安城も次第に歴史の彼方に消えていったのである。

唐の長安城と西安市の位置関係を示す模型。明かりが当たっている部分が唐の長安城の遺跡

苦労の連続だった発掘

初代考古隊長、馬得志さん(写真・沈暁寧)

 しかし、長安城が再び甦る日が来た。

 1956年11月、34歳の若き考古学者、馬得志さんは、陝西省西安で、漢の時代の一件の考古学調査を終え、北京に帰ろうとしていた。ちょうどそのとき、唐の王朝が大明宮に、ポロ競技場を建設したときの記念碑が掘り出された。そこで馬さんは西安に留まって、これを調査することになった。

 記念碑が発見された大明宮は、唐の皇帝が起居し、政務を執った所で、太極宮、興慶宮と合わせて長安の三大内宮と呼ばれている。634年、唐の太宗、李世民は、父の李淵への孝心を示すため、長安城の北側にある竜首原高地に、父のための避暑行宮を建て始めた。そしてその名を大明宮と定めた。

 しかしほどなく李淵は病没し、大明宮の工事はストップした。それから三十数年後、唐の高宗、李治のときになって、大明宮の建設はやっと完成した。

 大明宮の敷地は3.2平方キロで、広大な北京の故宮の6倍ある。その中の含元殿は、長安城でもっとも雄大な建築物であり、そこに立てば長安城のすべてを一望に収めることができる。

国宝クラスの文物「獣首瑪瑙杯」

 現在84歳になる馬さんは、当時の状況をこう回顧する。

 「私が初めて含元殿跡に行って見たときは、そこはただ、高く盛り上がって雑草が茂った大きな土の壇に過ぎなかった。上にあった建物は跡形もなく消え、周りは穴や窪みのある広い荒地やごちゃごちゃした平屋の家に囲まれていた。当時の私の仕事は、含元殿のもとの姿をはっきりさせることだった」

 1957年4月、中国政府は唐の長安城を系統的に調査することを決定し、馬さんがその重責を担うことになった。唐の長安城の秘密を専門に探ることができるので、若い馬さんは非常に興奮した。

 しかし、まもなく彼は笑うことさえできなくなった。当時、中国は経済力に限りがあった。考古学の経費として馬さんに与えられたのは、年間わずか一万元に過ぎなかった。さらに考古学に携わる人材も非常に足りなかった。馬さんの手には「兵糧」も「兵」もなかった。そこで彼は、十数人の高校生を選抜して、彼らを率いて唐の長安城発掘の道を歩み始めたのである。

シャベルで長安城を探す

太液池遺跡から出土した金杯(キョウ国強さん提供)

 1950年代や60年代の西安は、都市の規模が大きくなく、唐の長安城の多くの遺跡は、西安近郊の田野の中に散在していた。馬さんらは、文献に示された手がかりによって、「洛陽シャベル」という探査用の道具を使い、荒地や林の中を一つ一つ、地面に垂直に穴を掘って調査をした。

 毎朝7時過ぎから馬さんは発掘隊員を連れて仕事を始め、空が暗くなるまで仕事をした。彼は、深夜2時、3時まで文献を調べた。夏は肌を刺す日光が、隊員の両腕に大小の水ぶくれを作った。冬には身を切る西北風が、隊員の耳たぶや手足に霜焼けを作った。

 「我々は野外で仕事をしていたが、マントーをかじり、水を飲めば、それで食事は終わりだった。我々がもっとも恐れたのは大雨が降ることだった。もし雨水が調査坑に入ってしまえば、地層と遺跡が水につかって壊れてしまう。だから我々はいつも、雨が降れば現場に駆けつけたものだ」と馬さんは当時を振り返る。

 つらい仕事のため、隊員は真っ黒くなり、痩せてしまった。数カ月が過ぎると、十数人いた高校生は半数がいなくなってしまった。しかし馬さんは6年の歳月を費やし、36キロ近い唐の都城の城壁や108カ所の里坊(居民区)、城内の街路の位置を探し当て、唐の長安城の84平方キロの範囲を確定した。

現在、2億元を投入し、大明宮含元殿前の「御道」の復元工事が続けられている。石材を敷き詰めて、幅200メートル、長さ600余りメートルの当時の「御道」を再現するもので、「御道」の両側には、伝統的な建物群も建てられる。写真は復元図

ゴミの中から貴重な発見

興慶宮遺跡の中に建てられた遣唐使、阿倍仲麻呂の記念碑

 馬さんは、ボーリング調査の合間に、現地の農民の中から訓練を施した熟練作業員を率いて、一部の初歩的な発掘調査を行った。彼らは自分の家で使っているシャベルやクワ、スコップを使った。

 1957年、彼らは唐代の大明宮の麟徳殿付近のゴミための中から、酒甕を密封する際に使った封泥(封緘するためにつけた粘土の塊)を探し出した。

 当時、麟徳殿は、皇帝が大臣や外国の使節を招いて宴会を催すところだった。史料の記載によると、長安3年(703年)、女帝の則天武后は、麟徳殿で宴会を催し、日本の文武天皇のときに遣唐使として派遣された粟田真人(?〜719年)を接待した。則天武后は粟田真人が持参した日本の特産品を見て非常に喜び、宴が終わると粟田真人に「司膳卿」の職を与えた。

 また、日本では資料がないが、中国の史料にはこんな話が記載されている。

 大中2年(848年)、日本の皇子が唐に来たが、唐の宣宗はこの皇子が囲碁がうまいと知ると、囲碁の名手の顔師言に、皇子と対局するよう命じた。2人は長い時間、囲碁を打ったが、勝負がつかなかった。宣宗は麟徳殿で大掛かりな歌舞と宴会を催し、日本の皇子を歓待した。

 このように、麟徳殿は宴会に使われていたので、多くの酒甕が開けられ、酒甕の封泥がゴミために捨てられたのだろう。当時、宮廷に仕えていた侍者は、それが後に宝物になろうとはまったく想像しなかったに違いない。

青竜寺の中にある空海の記念碑

 唐の時代、各地の政府は毎年、宮廷に酒を貢いだ。その土地の最高の行政長官が、貢物の酒の封泥が乾かぬうちに、自分の官職と姓名の印を封泥の上に押した。「だから、こうした封泥は、唐王朝の領土の範囲や官職の等級、任官した人を知るうえで、重要な証拠を提供している」と馬さんは言っている。

 1957年から1989年までに、馬さんは含元殿、麟徳殿、興慶宮など、唐代の重要遺跡を相次いで発掘した。特に、1970年代に発掘された青竜寺は、日本の注目を集めた。なぜなら804年、日本の僧、空海が遣唐使について留学僧として長安に到着し、青竜寺で唐の高僧、恵果に師事して2年間、密教の仏法を学んだからである。空海は帰国後、日本で真言宗を開いた。

 しかし、青竜寺は戦火で焼かれ、破壊されてしまった。馬さんらは、その廃墟の上に、元の青竜寺の建築規模や形を考証し、この唐代の名刹を復元するうえで、鍵となる根拠を提供した。

 日本の首相として大平正芳氏や中曽根康弘氏が西安を訪れたとき、いずれも青竜寺を参観し、馬さんと面会した。1980年、馬さんは日本の高野山を訪問したが、高野山の僧たちは、馬さんが車に乗って寺院内の道を走ることを許した。このような接遇は、天皇だけが受けられるものであった。

 このように、馬さんは30年もの時間をかけ、唐の長安城の枠組みの輪郭を浮き彫りにし、後に続く人々に、都城研究の扉を開いたのだった。(2006年12月号より)

資 料: 長安城の歴史
  618年 唐は都を長安に定め、隋の大興城を長安城に改め、増改築と拡張を行った。
  629年 28歳の唐僧玄奘は長安を出発、4年をかけて天竺(インド)に到着した。
  631年11月 日本国の舒明天皇は犬上御田鍬を大使とする第1次の遣唐使団を長安城に派遣した。その後、894年までに日本は13次の遣唐使団を派遣した。
  645年  唐僧玄奘は657部の仏教経典を長安に持ち帰り、唯識宗を開いた。
  690年  則天武后が長安で帝位に就き、国号を「周」とした。則天武后は中国の歴史上、唯一の女帝である。
  714年  唐の玄宗が興慶宮を建てた。
  756年  安禄山の軍が長安に攻め入り、長安城は破壊された。
  757年  唐の将軍、郭子儀、李光弼、兵を率いて長安を奪い返した。
  880年12月  黄巣、軍を率いて長安に攻め込む。大明宮で皇帝に即位した。
  883年  黄巣、長安から撤退。
  904年  河南節度使、朱全忠、唐の昭宗に迫って洛陽に遷都し、長安城は徹底的に破壊された。


 
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