特集 国宝たちが語る中華文明の精髄
ジャイロコンパスにつながる唐の技術の枠


「薫香球」に秘められたハイテク

リュウ金鏤空花鳥球形銀香薫
唐、高さ5.1センチ、直径4.8センチ、鎖の長さ14.8センチ、1963年、陝西省西安市の沙坡村から出土
 展示品の中でもっとも小さいのは、直径わずか4センチ八ミリの透かし彫りの銀の球であろう。この小さな銀の球は、唐代に香を聞くために使われたものである。それは上下2つの半球に分かれており、球体の内部には2つの、直径の異なる銀製の同心の円い環が内臓されている。

 円い環は、小から大に順番にはめ込まれている。2つの環の間は、相互に垂直に活動する軸でつながっている。もっとも小さい環の中心は、同様の方法で香料を置く銀の碗と接続されている。環が速く回転するとき、「薫香球」内には2つの環がワンセットになっている球があるように見える。

 唐代の人々は、香を聞くとき、まず「薫香球」を開け、香料に火をつけ、その後で球体をはめ合わす。こうすれば、「薫香球」がどう転げようとも、球心にある銀の碗は、重力の作用によっていつも平衡を保つことができ、燃えている香料がひっくり返ることはない。

 「薫香球」の発明は、力学の原理に完全に合致している。現代の飛行機や船舶が使っているジャイロコンパスは、これと同じ科学に依拠している。

 欧州で最初にこれと似たものを設計したのは、ルネッサンス期のイタリアの画家であり科学者でもあったレオナルド・ダ・ビンチである。しかし中国に遅れること500余年であった。

「薫香球」の内部の構造
 「薫香球」には、ガンやオシドリ、キンケイなどの珍しい鳥類や草花が彫られていて、美しくもあり、また科学的でもある。 日本の香道にも影響  古代中国では、香を聞き、茶を品定めし、花を生け、絵を掛けるのは、精神を涵養する上流社会の四つの優雅な遊びであった。『周礼』の記載によれば、春秋戦国時代(紀元前770〜同221年)に中国ではすでに香料を植えることが始まり、人々は香草を焼いて虫を駆除した。

 漢代の中期から、香を聞くことは、貴族階層の間で流行し始め、役人は参内するとき、香料を身に着けていなければならなかったといわれる。有名な漢代の文物「博山炉」は、漢の武帝が職人に仙山の様子を仮想して作らせた香炉である。

 唐代になると、富貴の人が外出する際は常に、小間使いが「薫香球」を持って傍らに付き従っていた。文人や風流人は、自ら香を作り、友達といっしょに香を鑑賞し、品評した。

 民間の女性たちは、絹で作った香嚢を身に着けていたので、道を歩くと、ひとしきりかぐわしい薫りが漂うのだった。

 唐宋年間に中国の香の文化は最盛期を迎える。香料は、漢方薬の作り方に倣って、厳格かつ合理的に配合された。形はさまざまで、圧縮して特殊な図案や文字も作られ、香料で作った印鑑まで出現した。

 香を聞く方法は、直接、香料に点火するばかりでなく、香の薫りをゆっくりと発散させるため、香料を熱伝導の良い雲母片の上に置き、下から木炭であぶった。

撃鼓説唱陶俑(後漢)
高さ55センチ
1957年四川省成都天回山出土
 仏教徒は、香は人の知恵や徳性と特別な関係があると考えていた。人々は、ゆらゆらと立ち昇る香の煙を、自己の願いを持って天上に行き、神仏に伝える使者と見なした。

 官庁が儀式を挙行するときは、香炉を置く机を設けた。昔の中国人にとって香を聞くことは、虫を駆除し、穢れを祓い、元気を回復し、脳を覚醒させ、心身を平静にすることから、一種の荘厳で高尚な儀礼にまで発展したのだ。

 753年、鑑真和上は日本に渡り、香の文化も日本に伝わった。

 日本の人々はそれを、「香席」や「薫物合」など香を楽しむ活動に発展させた。有名な『源氏物語』の中でもたびたび「香席」の盛んな様子が描かれている。

 今日、日本にはなお香道が生きており、「御家流」「志野流」など百余の流派がある。(2007年1月号より)

 
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