水の中に沈んだ風景

 美しくて古い鎮は、鎮全体がまるごと移転することができた。しかし、美しい山や谷、延々と数キロも続く古い桟道は移転することができない。三峡の水位が上がり、多くの有名な景観が永遠に水の底に沈んだ。そしていま、美しい思い出と名残惜しさがわずかに残っている。

キ門

(上) 磨崖石刻が水没した後、その上部に新たな磨崖石刻が復元された   (下) 水没する前の瞿塘峡の磨崖石刻

  有名な三峡は瞿塘峡、巫峡、西陵峡からなっている。瞿塘峡は一番短く、8キロしかないが、その雄々しさで有名だ。この瞿塘峡のなかでは、キ門の景色がもっとも素晴らしい。ここは瞿塘峡の代表的な景観であるだけでなく、長江の三峡の中ではとても重要な景観の一つでもある。昔から「キ門の雄々しさは天下第一」と言われてきた。その両岸の山々は険しく、切り立った山の崖はまるで斧で削ったようで、川の流れが急なため、小さい舟は軽々にここを通ろうとはしない。

 三峡の水位の上がることによって、キ門の景観もある程度、影響を受ける。だが、水位の上昇は数十メートルで、千メートル近い山の峰に比べれば、ほとんど無視することができる。景観はほとんど変わらず、ただ両側の山々が低くなっただけだ。そのかわり、流れが急で濁っていた河川の水は澄み、水面は広く、静かになった。今までのキ門の景色と比べれば、少し平板になったが、人々にゆったりとした美しさを感じさせる。

古桟道

 キ門が「高い峡谷の穏やかな湖」になるにつれて、キ門付近の懸崖の磨崖石刻や鳳凰泉、「逆さ吊り和尚(切り立った崖にある、逆さに吊り下げられた和尚のような大きな石)」、古い桟道などの景観も水の中にのみ込まれた。

1991年に撮影された瞿塘峡の桟道

 瞿塘の古い桟道は、長さ8キロ。瞿塘峡全体を貫いていた。『奉節県志』の記載によれば、それは清の同治年間(1862〜1974年)の末から光緒年間(1875〜1908年)の初めごろに開鑿され、すべて金槌や鏨などの道具によって硬い絶壁を開鑿したものだという。その幅の一番広いところは1.5メートル、一番狭いところは40センチしかない。高さはわずか2〜3メートルである。人がその上を歩くと、左は崖だが、右には手すりはなく、足の下を滔々と流れる大河を見れば、身体が思わずぐらつく。

 だが、昔、地元の官吏は、8人で担ぐ大きな輿に乗ってこの桟道を通い、桟道が水没する前まで、地元の農民たちは天秤棒を担いでここを行き来していた。今は、これらの景色は、永遠に記憶のものでしかなくなった。そこで地元の政府は、後の人々が古い桟道の姿を見られるよう、新しい場所を選んで古い桟道を再建する考えを持っている。

白帝城

白帝城は次第に半島から孤島になっていった(写真・趙貴林)

 朝に辞す 白帝 彩雲の間
 千里の江陵 一日にして還る
 両岸の猿声 啼いて住まざるに
 軽舟 已に過ぐ 万重の山

 詩仙の李白の「早に白帝城を発す」の詩は、白帝城を天下に知らしめた。危篤に陥った劉備がわが子を諸葛孔明に托した物語は、さらに白帝城に物語りの彩りを加えた。

 ダムが建つまでの白帝城は、三方を水に囲まれた半島で、高く聳えるキ門を背にして、滔々たる長江に面していた。雄々しい雰囲気の中で白帝城は、独特な、繊細で穏やかな美しさにあふれていた。

 水が蓄えられると、長江の水は山の中腹まで上がり、半島は長江の中の孤島になった。しかし山頂にある白帝廟は影響を受けず、托孤堂は依然残っている。人々の心の中では、白帝城は単なるすばらしい風景であるだけではなく、一種の象徴、詩の境地の象徴でもある。だから水位の上昇が白帝城へそれほど大きく影響しなかったにもかかわらず、なお論争が続いている。

 今日の白帝城は、両岸の猿声は昔のままだが、半島が孤島に変わったことで、つまるところどちらが優れ、どちらが劣るのか、人によって見方はそれぞれ異なるだろう。



三峡年代記

1992年4月3日 全国人民代表大会は『長江三峡プロジェクトの建設についての決議』を採択。

1994年12月14日
 三峡プロジェクト、正式に着工。

1995年 三峡ダムの第一期工事で水没する住民の移転、全面的に始動。

1997年11月8日 三峡プロジェクトの長江本流の堰き止めに成功。

2000年7月17日
 150世帯が重慶市雲陽県から上海市崇明県に移住。これは政府が行った最初の他の省・直轄市への移住である。

2001年1月5日
 『長江三峡プロジェクトの水没地区と移転建築区の文物古跡の保護企画報告』が正式に可決された。

2003年6月1日
 三峡ダムの水門を下ろし、貯水開始。

2006年5月20日
 三峡ダムの堰堤の本体部分がすべて完成。

2006年10月27日 三峡ダムの貯水は156メートルに達し、初期の運営期に入り、水防、発電と航運の機能を全面的に発揮し始めた。


三峡に関するデータ

100年  プロジェクト完成後、長江の最も危険な区間である湖北省の荊江区間の水防能力は、これまでの10年に1回の洪水を防ぐ能力から、100年に1回の洪水を防ぐ能力にまで高まり、荊江の両岸の1500万の人口と2300万ムー(1ムーは約6.667アール)の耕地を保護することができるようになった。

19の県と市の113万人 ダム建設に伴う移住民は、湖北省、重慶市の19の県と市に及び、移住先に落ち着いた人口は約113万人。

17年 1993年の準備工事から計算すれば、プロジェクトの総工期は17年で、2003年には第1期ユニットが発電を始め、2009年に全部が竣工する。

846億8000万キロワット時 三峡の水力発電所の設備の最大出力は1820万キロワットで、年間平均発電量は846億8000万キロワット時。世界最大の水力発電所となる。

175メートル 三峡ダム完成後の正常な貯水の水位は175メートル。

37%
 三峡ダムが完成後、合計で1万トンの船隊が武漢から直接に重慶に行くことができ、水運コストは37%下がる。 (2007年2月号より)




 
本社:中国北京西城区車公荘大街3号
人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。