都市の底辺支える農民工たち
                                                  侯若虹=文 劉世昭=写真

 高層ビルや高速道路の建設ラッシュが続く中国の大都会。その建設現場で働いているのは、ほとんどが農村から出稼ぎに来た人々である。

 都市住民の生活は、日増しに豊かになっている。レストランや美容室などのサービス業も発展したが、そこで働く人々も大多数が農村から出てきた人たちだ。

 夫婦共働きの家庭で、育児や家事を担うお手伝いさんも、たいていは農村からやってきた娘さんだ。都市の吐き出す大量の廃品やゴミを処理するのも、都市の人々ではない。

 彼らは「農民工」と呼ばれる。すでに人口の10%を占める1億2000万以上の農民工が、都市の建設とサービスを支えている。

 改革・開放政策が始まってほぼ30年。計画経済から市場経済へ、急速に移行する中から農民工は出現した。そして、古いシステムや観念と衝突しながら、いまや中国の一大社会集団になっている。

 彼らは大都市で、どんな暮らしをしているのか、どんな希望を抱いているのか、政府は彼らをどうしようとしているのか。大都市の底辺を支える農民工の実態を探ってみた。

特集1     改革・開放から生まれた新たな集団

出稼ぎ生活20年

大規模な北京の都市建設は、多くの農民を土地から切り離し、都市に引き寄せた

 北京の中央テレビ局の新築工事現場で、青い作業服にヘルメットをかぶった電気溶接工の胡化林さんは、建設中の高い鉄骨の上で、溶接の火花を散らしていた。

 「俺はもとは農民だ。これまでにいろんな仕事をやってきたよ」と胡さんは言った。

 胡さんの家は、江蘇省揚州市宝応県にある。1984年、高校を卒業したが、大学の入試に失敗し、県の文芸工作団(歌舞や演劇などの文化芸術団)に入って、淮劇(江蘇の伝統劇)を学んだ。

 3年後、結婚した胡さんは、南京に出た。そこでまず服の商売をし、その後、機械工場で働いた。このとき、電気溶接の技術を身につけた。だから彼は、農民工になってからすでに20年のベテランである。

 1995年、彼は宝応県の県城(県人民政府の所在地)に帰り、出稼ぎで貯めた金で住宅を買い、郷鎮企業(末端行政単位である郷や鎮の農民が所有・経営する企業)で仕事を始めた。このとき彼には親と子どもがいた。郷鎮企業の賃金は安く、彼は生活の重圧をひしひしと感じた。

 そこで胡さんは、もう一度、故郷を出て、宝応県の建設会社について北上し、働くことにした。

溶接工として働く胡化林さん

 「俺はあっちこっち、世間を見ているので、この会社の親方が信用を重んずる人だとわかっていた。それにいい加減な会社でなかったので、ついて行くことにした。思った通りだった」と彼は得意満面で言った。

 1998年からこれまでに、胡さんは北京で、いくつかの大きなプロジェクトの建設工事に参加した。交通大学、国投ビル、国貿ビル、検察院……彼はまるで、家宝でも数えるかのように、自分が参加して建てた建物の名前を列挙した。

 胡さんのような人は「農民工」とか「民工」とか呼ばれる。しかし、都会での生活がこんなに長くなると、農民工は「都市で生活する田舎の人」なのか「田舎に根を持つ都会の人」なのかわからなくなっている。

戸籍で分けられる2元社会

 新中国成立後、中国は都市と農村の2元的な社会構造をつくり上げた。1958年、中国は戸籍制度によって公民を、「農業人口」と「非農業人口」の2つに分け、農村人口が都市に流入するのを厳しく制限した。計画経済の下で、市場の商品が不足し、十分な供給ができないという現実に対処するためだった。

 その後、この戸籍制度と一体になった多くの措置が次第に制定された。例えば、食糧や油の配給、就職、医療・保健などの制度や教育、除隊した軍人の再就職、子女の戸籍移動などの多くの面でこまごまとした規定が設けられた。こうして都市の人々に利益が傾斜配分されるシステムが構築されたのである。

将来、都市化をどう進めるか、それは大きな課題だ

 この制度によって農村で暮らす人々は、都市に行って稼ぐことができなくなった。数十年来、この制度が続いてきたので、人々は、農民の社会的地位が都市の人より低いと思うようになった。もし、農村の娘さんが都会の人に嫁いだなら、この娘さんは「玉の輿に乗った」と誰もが思うだろう。

 今になっても、一部の農民は、自分の努力で企業家になり、かなりの資産をもつようになったのに、都会の人たちはまだ彼らを「農民企業家」と呼ぶ。頭に被せられた「農民」という帽子は、まだとることができないのだ。

 中国の社会主義市場経済が、計画経済にとって替わった後、昔ながらの戸籍制度の弊害がますます顕著になってきた。それは、生産力の発展を制約するボトルネックとなったのである。

「盲流」から秩序ある移動へ

 このボトルネックを真っ先に突破したのは、改革・開放後の農民だった。1980年代初め、農村には郷鎮企業が出現し、かなりの数の農民たちは、「耕地を離れても郷を離れない」というスローガンの下、農村に住みながら地元の工場で働き始めた。

 時を同じくして、都市の街頭には、鋸や鏝を持って請負仕事をしたり、天秤棒を担いだり、屋台を押したりして道端で農産物を売る農民たちが現れた。また、親戚や知人のツテで都会に出て、家事手伝いになる人も出てきた。彼らこそ最初に都市にやってきた農民工である。

農民工の労働許可証である「上崗証」。技術試験に合格してはじめて証明書が発給され、仕事に就ける

 こうした農民工に対する政府の政策は、次第に緩やかになり、規則がつくられ、公平なものになって行った。

 1983年以前は、国は農民が都市に出て働くことに対し、それを抑制する政策をとっていた。その当時、都会に働きに出てきた農民たちは「盲流」と呼ばれ、いつでも追い返される可能性があった。

 しかし1984年からは、農民が自分で食糧を負担するなら、都市に出て住み、肉体労働をしたり、商売をしたり、サービス業で働いたりすることがやっと許されるようになった。

 1980年代末から90年代初めには、「盲流」と呼ばれる農民工の大流動が起こった。これを秩序あるものにするために、政府は何回も、経済が発達した地区に農民工が大量に流入するのを制止したり、制限したりした。

 1992年以後、農民工に対し、就業カードを発給して管理する制度が始まった。各地の地方政府も、小都市の戸籍制度に対し、改革を実施し、農民が地方小都市に住むことへの制限を緩和した。最初に登場した胡さんは、県城で住宅を買ったので、戸籍を県城に移すことができたのである。

工事現場で、安全に関する集会が毎週開かれる

 この数年、各地の政府は逐次、農民が都市に出て就業することに対する各種の不合理な制限を取り消し、戸籍や教育、住宅など多方面にわたる一連の改革を積極的に推進し、都市で就業する農民の合法的権利と利益を守るようになった。

 1990年代以後、農村を出て働きに行く農民工の数は急に増えてきた。彼らの就業先は、最初は建築関係と家事手伝いが主であったが、次第に運送、郵便・電信、商業、飲食、修理、鉱工業など百以上の業種に及ぶようになった。

 統計によると、1985年から1990年までに、農民工の総数は約335万人だったが、1995年には6600万人に達した。

権利と利益を守る

農民工はお金を節約しながら都市で暮らす。中国のビールは1瓶1.5元(約23円)と安く、彼らは食事の時にこれをよく飲む

 北京のある建設現場で、「指揮」の腕章を巻いた李先徳さんはハンディートーキーを片手に巨大なクレーンを指揮していた。クレーン班の班長である彼も、河南省信陽の農村からやって来た農民工である。

 田舎にいたころ彼は米や麦を栽培し、人々から尊敬される篤農家だった。「昔は黄土を見ながら働き、今は大空を見ながら働く毎日だよ」と李さんはおどけて見せた。

 李さんは3年間、兵役をつとめ、除隊後は郷里に帰った。村の人々は「彼は世の中をよく知っている」と、民兵の大隊長に推挙した。「実は民兵の大隊長というのは、何もすることがないんだよ。会議を開くだけだ。今の仕事は、それよりずっと責任が重い」と李さんは笑った。

 建設会社で働いて十数年、李さんの技術と能力は大きく向上した。今では毎月4000元の収入があり、妻と子どもを北京に呼び寄せていっしょに暮らせるようになった。それでやっと彼は、都会にも自分の家があると感じるようになった。

 統計によると、現在、全国で第2次産業に従事している人の57.6%は農民工が占めている。その中で、製造加工業は68%、建設業は80%が農民工だ。第三次産業では、農民工は52%を占めている。中でも都市建設、環境保護、家事手伝い、飲食・サービス業は90%が農民工である。

中央テレビ局新築工事現場の農民工の昼食に出される一人前のおかず。主食は米飯か饅頭で、いくら食べてもよい。農民工は毎回、だいたい300グラムから500グラムの主食を食べるという。

 農民工は農民から急速に離脱し、産業労働者の階層に溶けこみ、しかもその主要な構成部分となっているということができる。

 しかし、李さんのような高給を取る農民工は決して多くはない。2006年の国家統計局の農民工の生活状況に関する調査では、平均月収はわずかに966元であり、月収1500元を超す農民工は一割に過ぎない。

 農民工は、教育程度が低いので、技術的に難しくない仕事に従事しており、賃金も安い。一部の工場や企業は、農民工を雇用する際、労働時間が長く、労働条件が悪いケースがよくある。ひどい時には、農民工への給料の支払いを長期間渋る場合もある。

 このため一部の農民工は仕方なく、命がけで、当然支払われるべき賃金を要求する事態が起こっている。

 2006年9月13日に『鄭州大河報』が報じたところによると、ある工事現場で働いていた農民工が、自分や仲間の2万元の未払い賃金を払うよう雇い主に要求し、高いクレーンによじ登った。消防や警察が出動して説得し、やっと彼はクレーンから降り、彼と仲間は2万元の賃金を受け取ることができた。

クレーン班の班長をしている李先徳さん

 総理に直訴して解決したケースもある。

 2003年、温家宝総理が農村を視察するため重慶市雲陽県人和鎮竜泉村を通りがかり、そこで村民たちと雑談したが、そのとき村民の一人、熊徳明さんが勇気をふるって「主人は出稼ぎに行ったが、2000元以上もの工賃を払ってもらえない」と訴えた。温家宝総理はすぐにこの賃金遅配問題を解決するよう地方政府に指示し、6時間後、彼女は未払い賃金を手に入れることができたのだった。

 2004年になると、広東、福建、浙江などの製造加工業が密集している地区で、生産のピーク時に求人難が起こるという現象が現れるようになった。またある企業では、労働者がどんどん辞めてしまう事態が起こった。その年の労働・社会保障部の調査報告では、農民工の欠乏は一部の地区では10%に達し、珠江デルタ地帯だけで200万人が不足していることが確認された。

貴州から来たミャオ族の夏俊さん(手前)は、インテリの農民工だ

 これは、賃金が低くて待遇が悪く、労働者の権利と利益が保障されず、労働環境が劣悪である企業に対して、農民工が不満を抱いていることを表している、と専門家は指摘している。そしてまた、農民工が全体として、自分の権利と利益を守ろうという意識を持ち始めたことを意味している。

 この数年、各地の政府は、農民工の権利と利益を守るため、多くの新たな措置を制定した。例えば、企業に賃金保証金を納付するよう要求し、もし納めない場合は着工させないことにした。これにより農民工は、期日通りに満額の賃金を受け取ることができる。一部の省では、最低賃金ラインを高くする方法で、農民工が基本的に生存できるように条件を整えた。またある地方では、農民工の労働組合が出現し、農民工の権利と利益を守るのを助けている。

 過去20年の間に、農民工の集団が出現し、それが巨大化したことによって、中国の一連の経済・社会体制改革は促進され、市場経済が計画経済に取って替わるペースを速めた。

 しかし、若い世代の農民工が増えてくるのにつれて、農民工の集団はいつまでも、都市の片隅を徘徊してはいない。彼らは「中国社会の新しい労働者階層」となって行くことだろう。(2007年3月号より)



 
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