北京五輪いよいよ
 北京オリンピック 準備着々と
特集2
 
北京五輪にかける私の夢

 「同じ世界、同じ夢」。これは北京オリンピックのスローガンである。北京の市民も一人一人、オリンピックに自らの夢を託す。

 オリンピックの五輪マークは、赤、黄、緑、青、黒の五色で描かれている。北京オリンピックのマスコット「福娃」もこれと同じ五色。それぞれの「福娃」を手に、それぞれの夢を語ってもらった。

陰から五輪を支えたい

「福娃」の「貝貝」を手に持つ曹帆帆さん、17歳。北京市第156中学の高校2年生

 今年4月、マダガスカル共和国のオリンピック組織委員会の委員たちが北京第156中学を訪問した。生徒たちは、遠路はるばるやって来た客人のために、京劇や民族音楽を披露し、北京オリンピックのマスコットの「福娃」に扮装して、北京オリンピックの基本的な状況を紹介した。観客席からは何回も拍手が起こった。舞台の下で見ていた曹帆帆さんはうれしくてたまらなかった。なぜなら彼女は、この公演を企画した一人だからだ。

 曹さんの家は、メーンスタジアムの「鳥巣」の近くにある。「窓から見ていると、『鳥巣』は日一日と建ち上がってくるのです。ぜひあそこへ行ってオリンピックの開会式に参加したい。きっと記念すべき体験になるわ」と曹さんは言った。

 曹さんは明るく活発で、鷹揚な女の子だ。最近、英語の基礎がしっかりしている彼女は、オリンピックのボランティアになりたいと申し込んだ。自分の笑顔で、外国の友人に喜びを感じてもらおうと思ったからだ。曹さんは「北京は開かれた都市なので、北京市民はみな、身近な外国の友人に、自信をもって、笑顔で対応すべきだ」と思っている。そして彼女は、外国からのお客さんたちに、自分の大好きな「鳥巣」を詳しく紹介し、もっと北京オリンピックを知ってもらうチャンスがあればいいな、と期待している。

曹帆帆さんは毎週、週末の午後、北京市少年宮合唱団でオリンピックの歌の練習に参加する

 先日、彼女は、北京市少年宮で催された「オリンピックを迎える文芸公演」で、合唱団のメンバーとして舞台に立ち、歌を歌った。毎週土曜日の午後、曹さんは北京市少年宮合唱団に来て、歌の練習をしている。低音担当の彼女は、一番後ろの列に立っている。低音はいつも主旋律を引き立てる役目で、主役になることは少ない。曹さんは、自分にとってオリンピックも同じだと思う。「もしオリンピックを一つの花園としたら、自分は一枚の平凡な緑の葉として、その花園をもっともっと美しく引き立たせたいと思う」と彼女は言っている。

技術専門学校で充電したい

「福娃」の「晶晶」を手に持つ李双全さん、32歳。「水立方」建設工事現場の電気工

 1992年に、北京に出稼ぎに来た李双全さんは、河北省定興の出身。職業中学で電気を学び、卒業後、数社で設備の修理を行ってきた。2004年、「水立方」の建設プロジェクトが外部から労働者を募集し、李さんは友人の紹介でここで仕事をするようになった。

 李さんが来たばかりのころ、工事現場は巨大な土の穴だけだったが、3年足らずで、美しい藍色の体育館がすでに地面から垂直に立ち上がり、「鳥巣」と呼応して、北京北部の2つの注目される近代的な建築となっている。

 建設現場で働くその他の労働者と比べ、李さんが幸せなのは、故郷が北京に近く、祝日や休日になれば、家に帰って父母や7歳になる息子に会えることだ。家に帰るたびに、隣近所や友人たちが、「水立方」のことを聞きに来る。工事ははかどっているか、オリンピックの水泳競技の種目はたくさんあるのか、あの藍色の外を覆った幕は、どんな新しい素材でできているのか……。

 これに対し李さんは、自分が知っていることはみな話してあげる。「彼らの方が私より、工事の状況に関心を持っていると感じることがあるよ」と彼は言う。

 電気工として李さんは、仕事の時、配電コントロール室にいなければ、建設現場のあちこちで、電気回路を検査・修理している。仕事は、彼ともう一人の労働者とで、交代で行っている。

「水立方」の建設現場で働く李双全さん

 仕事上、彼は多くの技術者や外国の建築労働者と接触した。「彼らと比べ、私はある程度の経験があるものの、技術能力と理論水準ではまだ一定の差がある」と言う。彼は、北京のある技術専門学校を志願し、この秋には授業が始まるので、余暇を利用して再び学習し、充電するつもりだ。

 李さんの奥さんは彼と同郷で、彼女も北京に働きに来ている。この若い夫婦はずっと北京で、仕事の場所が変わるたびにそこに部屋を借りて住んできた。二人の最大の願いは、北京に定住し、子どもを迎えて学校に行かせることだ。しかし、北京の住宅価格が日増しに高騰しているので、その願いの実現は、しばらく待たなければならなくなった。

 2008年8月以前に、李さんら労働者たちは工事現場を去る。建物を造ったものとして、彼らはみな、チャンスがあればもう一度、中に入って見てみたいと思っている。

奉仕するのが私の喜び

「福娃」の「歓歓」を手に持つ熊元林君、22歳、中国政法大学学生 中国政法大学青年ボランティア協会会長

 2007年3月、「2006北京ボランティアトップ 」の選定で、熊元林君は特別ノミネート賞を受賞した。

 熊君は、重慶の辺鄙な山村の農民の家に生まれた。2004年、彼は、ある人の好意で経済的援助を受け、大学の門をくぐることができた。それ以来、熊君は人の恩に感謝する気持ちを忘れたことがない。

 大学に入ると熊君はすぐに、大学の青年ボランティア協会に参加した。当時、ちょうど北京オリンピックの準備が全面的に始まったころで、ボランティア活動が盛んに行われていた。

 「グリーン・オリンピック(緑色五輪)」のスローガンに呼応して、熊君は使用済み電池の回収する環境保護活動に参加した。彼は住宅団地の家々を回って使用済み電池や不用となった電池を回収し、それが環境に与える害を宣伝した。毎日、何度も階段を登り、腰や足が痛くなったが、1人で5600個以上の使用済み電池を回収するという業績をあげ、彼の初めてのボランティア活動は、みんなから賞賛された。

 その後、熊君は北京周辺の山間部にある小学校に行き、オリンピックに関する知識や英語を教えた。「この僻地の子どもたちは、オリンピック競技会場に行って実際に試合を見るのは難しいかもしれない。しかし私は彼らが、自分もオリンピックに参加しているのだ、と感じてほしいのです」と熊君は言った。

仲間たちといっしょにボランティア活動について相談する熊元林君(左)

 06年、熊君は大学の青年ボランティア協会の会長に当選した。組織や企画の仕事が多く、彼はますます忙しくなった。去年10月、熊君は大学の600人の学生を組織し、北京市民が万里の長城に集まって笑顔をリレーしてオリンピックを迎える活動に参加した。そのイベントの準備のために半月間に、彼は毎朝5時に起き、夜遅くまで働いた。

 熊君から見れば、2008年オリンピックは、世界中の人々が北京に集まる友情と喜びの盛大な大会であり、自分もオリンピック競技会場で、各国の選手たちのためにサービスしたいと思っている。しかし、オリンピックの開幕直前に、熊君は大学を卒業する。そして就職のため北京を離れるかもしれない。「もしそうなったら、ちょっと残念に思いますが、でも、オリンピックが成功しさえすれば、うれしく思います」と熊君は言っている。

マナーの向上を目指す
「福娃」の「迎迎」を手に持つ李春燕さん。59歳、北京の市民。

 土曜日の朝早く、北京の双井地区に住む李春燕さんはかばんを背負って、社区(コミュニティー)が開いたオリンピック講座にやってきた。クラスメートは、朝夕顔をあわせている隣近所の人々で、先生は近くの中学校の生徒だ。李さんは熱心に授業を聴き、ノートを何ページもびっしり取った。

 家に帰ってから彼女は、またいそいそと、学んだばかりの近代オリンピックの起源やスポーツ選手への応援の仕方などの知識を、夫や孫に教える。

 1年前、オリンピックの準備のため、都市建設が行われ、李さんが住んでいた所には、大きな交通ターミナルが建設されることになった。李さん一家は狭い住宅に別れを告げ、いまの広いアパートに引っ越した。

 李さんは外出するたびに、車の窓から新しく整備された広々とした緑地や広い大通り、清らかに流れる川を眺めて、とてもうれしく思う。「本当にオリンピックのおかげだわ。私の生活環境がこんなに速く改善されるなんて」と彼女は微笑みながら言った。

 一部にはまだマナーが悪かったり、公衆道徳に欠けていたりする現象が見られる。

李春燕さんは英語の勉強にも余念がない。北京オリンピックでは、外国人と友だちになりたいと思っている

 あるとき、数人の若者たちがバスの中で、大声で笑いながらしゃべっていた。これを見た李さんは彼らに近寄って、一人の若者の肩を軽くたたき、にこにこしながらこう言った。「もうちょっと、声を小さくしたらいかが」。若者たちはそれを聞いてきまり悪そうに笑い、声を低くした。

 ところかまわずツバを吐く人を見つけると、李さんは「そんなことをしてはいけない」と注意する。公園のベンチが汚れているのを見ると、李さんはティッシュペーパーできれいにぬぐう。

 「誰だって、お客をもてなすときは、自分の家をきれいに、快適にするでしょう」と李さんは言う。「私は普通の一市民なので、オリンピックのために大きな貢献はできませんが、自分にできることは必ずやりますよ」と言うのである。

市民の視線で伝えたい

「福娃」の「ニーニー」を手に持つ王小節さん、26歳。CCTV『北京五輪がやってきた』編集者兼キャスター

 2001年、北京オリンピックの招致が成功したとき、王さんはすでに中国人民大学新聞学部を卒業し、中央テレビ局(CCTV)の社会ニュース部の記者になっていた。

 オリンピック招致が決定した夜、北京の街は沸き返った。市民たちは街に出て駆け回り、口々に招致成功を祝った。王さんは同僚と天安門広場に駆けつけて、現場から報道した。

 「人々はみな、とても興奮し、多くの人が顔に国旗のシールを貼ったり、新聞を高く振ったり、『北京!北京!』と大声で叫んだりしていました。私たちも興奮して、徹夜で仕事しました」と王さんは当時を回顧する。記者としての王さんのイメージは、オリンピック招致成功のニュースとともに、中国のテレビ視聴者たちに知られるようになったのだった。

 王さんは、自分がオリンピックとは少し縁があると思っている。06年の初め、社会ニュース部がオリンピックのテレビ番組を作ることになったが、王さんは選ばれて、番組の編集の責任者になった。翌日から彼女は、取材チームをつくったり、テーマを選んだり、場所を借りたり……慌しく番組を制作し、そして週一回の『北京五輪がやってきた』がその年の4月に誕生した。

 王さんはこう言っている。「中国国内にオリンピックを題材とするテレビ番組はたくさんあるので、特色を出すために、私たちはオリンピックのもつ社会性に重点を置き、オリンピックが社会のさまざまな面とどのような関連を持つか、探ってみようと思いました」

録画制作中の王小節さん

 実際の取材の中で、王さんと同僚たちは、オリンピックの影響はほとんどいたるところに及んでいることを発見した。環境保護、交通、衛生、都市の改造などなど、オリンピックは市民たちの生活習慣と考え方を急速に変えつつある。「オリンピックは北京に、都市レベルを向上させる場を提供してくれた。例えば、オリンピックのチケットの購入の仕方が確定した後、多くの市民はオリンピックを準備、開催するうえで公正、公平、公開がいかに重要かを体得した。こうした意識は、市民の資質の向上に積極的な影響を与えている。オリンピックは、一人一人の市民と密接な関係があるのだ」と彼女は言う。

 『北京五輪がやってきた』は、北京オリンピックの開幕と同時に、放送が終了する。しかし、王さんにとっては、2年にわたるオリンピック報道は、彼女のキャリアの中でもっとも意義のある思い出になるに違いない。
(2007年8月号より)




 
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