老人の暮らしやすい村
徳州市の中心から7里(3.5キロ)行くと、七西村がある。昔は「七里舗」と呼ばれたが、村が大きくなり、七西、七中、七東の三つの村に分かれた。現在、七西村には718戸、2968人が住んでいて、このあたりでは豊かな村だ。
村民は野菜の栽培を主とし、近年は、山東省寿光市で開かれた「中国野菜博覧会」から新たな技術や新品種を導入し、専門家を招いて指導を受けた。その結果、ここのビニールハウスで栽培されたピーマンやヘチマ、アブラナは、無公害の「緑色食品」と認定され、市場で引っ張りだこになっている。また、村に新設された農業生産財の卸売り市場には、多くの商人が店を出し、毎年の純収入は200万元(1元は約16円)以上に達している。
村が豊かになれば、どうしたら村民がもっと気持ちよく暮らせるかを考える。お年寄りへの気配りを例にとると、村は旧暦の9月9日の重陽の日を「老人の日」と定めている。この日には村の220人のお年寄り一人一人に、服一着と布団一枚、食用油一缶、徳州特産の「パー鶏」(とろ火で長時間煮た鶏)が贈られる。さらにお年寄りの誕生日には、村からバースデーケーキと卵10キロ、百元の祝い金が届けられる。
発揮された村民の自治
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七西村の農民は、無公害野菜の栽培によって豊かになった |
「七西村がこんなによくなったのは、先頭に立って働いた李金亭さんのおかげだ」と村民は言う。これに対し李金亭さんは「これは村民の支持と、みなが心を一つにした協力の結果です」と言う。
これはあながち謙遜ではない。李さんは1993年、村の共産党支部の書記と村委員会主任(村長)に当選した。しかし、彼の前には大きな問題が立ちはだかっていた。それは、「七西には7つの多いものがある」という問題だった。即ち、借金が多い、喧嘩が多い、泥棒が多い、お上への陳情が多い……。しかも村の帳簿にはわずか4元3角しか残っていなかった。
こうした困難に直面し、李さんは考えた。「前任者が失敗したのは、村委員会の仕事を公開せず、何か行なうにも民主的でなく、村民が自治の役割を発揮することがなかったからだ」
そこで彼は、民主的に村を治め、村民自身に村の仕事を管理させようと決心した。その中でもっとも重要なものは、村民代表大会制度を制定したことである。
この制度ができてまもなく、七西村に村民代表大会が設立された。10戸ごとに一人、公正で有能な人が代表に選ばれた。それに村の幹部、党員の代表が加わり、村民代表大会のメンバーは全部で108人で構成された。代表たちは、議論し、政策を決定し、幹部を監督・評議する権力を持っている。村民代表大会は毎年、6月と12月に定例会議が開催され、重大な問題が起これば、その都度開催される。
村民の最大の関心事は村の財政収支であった。そこで10人の村民で構成する民主財務管理小組がつくられた。彼らは『民主財務管理制度』や『村務財務公開制度』に基づいて、毎月、村の一つ一つの収入と支出に対し真面目に審査し、財務規定に適合し、正確で誤りがないことを確認した後、小組のメンバー一人一人が署名捺印する。そして毎月1日を「公開の日」と定め、これを掲示して公表する。また毎月3日を「質問の日」として、もし疑問があれば、村民は質問することができる。村の幹部は毎月5日を「回答の日」として、村民に公開で答えることになっている。
このほかにも、七西村にはさまざまな組織が設立されていて、「民主治村」を広く実施している。「紅白理事会」もその一つで、村の冠婚葬祭の手助けをしている。この理事会は、経験豊富で面倒見が良い人で構成され、村が購入した冠婚葬祭用の車両や器具、用具などを無償で使い、村で行なわれる冠婚葬祭を取り仕切る。村民は、体面が保てるうえに節約にもなり、家の負担も軽くなるので、みな満足している。
巨大ディベロッパーを断る
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七西村が50ムーの土地に建てた農業生産財市場(手前)。後方は村民のために建てられた新しい住宅 |
2004年初め、村には大きな問題が降りかかった。村の上級機関が、村の土地を活用し、北京と上海を結ぶ京滬高速道路沿いの100ムー(1ムーは6.667アール)の土地を工商業の開発に用いるという村の決定を承認し、浙江省の三社が提携した巨大資本のディベロッパーが、この交通便利な土地に早速目をつけたのだ。
ディベロッパーは急いで李さんに、この用地を買収して日用雑貨の卸売り市場を建設したいと表明した。 彼らの最初の買い値は、1ム12万元だった。 李さんが黙っていると、たちまち3万元、5万元、6万元と値段をつり上げた。彼らはどうしてもこの土地が買いたかったのである。しかし李さんは「このことは、村民代表大会が討論し、決定します」と答えたのだった。
村民代表たちはこの話を聞いて、誰もが反対した。「1ム16万元で計算しても600万元だ。今、村の支出は一年で140万元だから、4年で使い切ってしまう。先祖が残した財産を売ることはできない」と言うのだった。
その後、代表たちは調査を重ねた結果、この一帯が農業地帯であり、種子や化学肥料、農薬、ビニールなどを売る市場が付近にはないことが分かった。そこで、農業生産財を売る市場を開設すれば、金ももうかるし、農業生産も促進できると提案した。
この話を聞きつけた浙江のディベロッパーはいろいろ手を回して、李さんの上司を探しあて、李さんに圧力をかけ、用地売却にサインさせるよう頼み込んだ。そこで李さんはまた村民代表大会を開き、アンケート用紙をつくって、家ごとに意見を書面で求めた。
その間にも上からの圧力がかかり続け、上司が1日に6回も李さんにサインするよう求めたことさえあった。そのたびに李さんはこう答えた。「これは村民全体の意見です。家ごとのサインがあるのがその証です。私一人が村民の意志にそむくことはできません」
最後に、どうしようもなくなった上司は、浙江のディベロッパーに「衆議に従わないことは難しい」と回答するほかはなかった。
こうして100ムーの土地は売られずに残った。そこで村は、まず50ムーの土地に農業生産財を売る市場を建て、残りの50ムーを開発し「安住プロジェクト」に使い、村民を新しい住宅に住まわせることにした。
すでに農業生産財市場は完成して開業し、山東省の済南市や河北、河南、浙江、台湾などの各省から百近い業者がここに入って商売している。この市場から村は、賃借料、営業費、倉庫料を毎年200万元以上受け取っている。まるで「金のなる木」である。このおかげで、野菜栽培農家に対して菜園の水と電気の使用料金を給付し、村民には農村医療共済の費用を給付し、村の中の道路を舗装し、学校の校舎を建てる……など、村が行なうことができるようになったのである。 (2007年10月号より)
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