祭りの歳時記 B
               丘桓興=文 魯忠民=写真  
   
 

 
 
 

「2月2日、竜の台頭、皇帝が田を耕し、皇后が飯を送る」という場面を描いた民間の木版年画(山東省イ坊)

「春竜節」は、旧暦の2月2日(今年は西暦3月11日)に行われる。土地神を祭り、竜を迎え、気候が順調で、豊作であることを祈る祭りだ。

古代の盛大な祭り

 「祭社」(土地神を祭る)の「社」とは、つまり土地のことだ。民間では、土地は万物をはぐくみ、五穀を育て、生き物を養うと考えられている。それによって、土地崇拝と土地神の信仰が生まれ、「祭社神」(土地神)を祭る「社日節」が行われるようになったのだ。

 土地神の信仰は、まず祭壇や廟を設けなければならない。王や諸侯の建てたものを「王社」、庶民の建てたものを「大社」とそれぞれ呼んだ。

 祭壇にはさらに社主、つまり土地神が祭られた。もっとも早期の社主は、樹木であった。たとえば、夏の時代には壇上に松の木を、商の時代にはコノテガシワを、周の時代には栗をそれぞれ植えた。その後、社主は石、木の札、堆積した土などに変わっていった。たとえば、北京・中山公園の「社稷壇」は、五色の土を社主としている。東に青土、西に白土、南に赤土、北に黒土、中央に黄土を積み上げて、天下の土地を代表し、また、陰陽五行の思想も表している。さらに豊作を祈願するために、五穀をつかさどる「稷神」を祭り、社稷壇と呼ぶようになっていった。これが、つまり明・清時代の皇帝が土地神を祭った、王社であった。

 庶民の建てたものは、多くが「土地廟」と呼ばれている。各地の町村に分布している土地廟は、大小さまざまである。町では、多くが住民たちの寄金によって建てられている。村では、村の入り口の大樹の下に、1、2メートルほどの四角い小廟が設けられている。または四枚の石片を用いて三枚で壁を作り、一枚を屋根としたもの、甕のかけらを用いて屋根にしたものなどもある。土地や豊作、子孫繁栄をつかさどる神が、このように簡素なあつかいを受けても、人々にうらみを抱いたり、仕返しをしたりすることはなかったようだ。

村人たちは高足踊り、船踊りなどの民間芸能で「二月二日」を楽しくすごす

 そのため、民間で作られている土地神の像は、長いひげをたくわえた慈悲深い老人の姿であることが多い。のちに、土地神が一人で廟を守るのは寂しかろうと思った人が、情にかられて「土地婆」と呼ばれる夫人を隣に添えた。しかし、福建省、広東省、西南地区の人々は、土地廟の中に一、二個の石を立て、その上に赤い布をかぶせて、土地神としている。これはおそらく、石を社主とした古代の遺風であろう。農家では、いまでも居間の正面の壁に「天地君親師神位」の位牌を供養し、その壁の下に「土地神位」と書かれた赤い紙を貼り、香炉を置いて、家を見守る土地神を招いている。

中山公園の五色の土

 土地神の祭りは、古代人の盛大な祭日だった。帝王はみずから王社へ赴き、これを祭り、豊作を祈り、その後、群臣のためにと盛宴を開いた。庶民は、集団でその村の土地神を祭った。古代の詩文からは、当時の祭りの情景をうかがうことができる。村人は金を集めて、豚や羊を買ってくる。ドラや太鼓を打ち鳴らし、豚や羊を担ぎもち、酒壺、各種の供え物を手に提げて、土地廟の前にそろって集まる。香をたいて、廟を拝み、五穀豊穣、子孫繁栄、村落の安寧を祈るのである。祭りが終わると、世帯数に応じて肉を分け、廟の前で食事を作り、飲食をともにして楽しく過ごす。太鼓を鳴らし、対歌(歌垣)をうたう娯楽で楽しみ、日が暮れると帰途につく……。唐代の詩人・王駕は、七言絶句の「社日」のなかで「桑柘 影を斜にして春社散じ 家家酔人を扶け得て帰る」と書いている。

ごちそうを供えて祭る

河南省の農村では「二月二日」前後に「天穿節」の廟会(縁日)を行い、豊作を祈る

 現在、北方漢族の民間においては、土地神の祭りが行われなくなった。その原因をたどれば、元の時代(1271〜1368年)にさかのぼるだろう。元朝の蒙古貴族が、その地位をかためるために、漢族の民衆たちの反抗を恐れて、集団で土地神を祭ることを禁ずるおふれを出したのである。また、当時は宗族的な観念が広がり、宗祠(一族の祖先を合祀する廟)の祭りが盛大に行われていた。そのため、村落共同体による農耕の助けあいと土地神の祭りが、宗族の活動へと変わっていったのである。

 しかし、福建省、広東省、西南地区においては、土地神を祭る習俗がいまでも残されている。昔のように豊作を祈り、子宝に恵まれるようにと願うのだ。また、いまでも娯楽や仲裁、教育の効果が期待されている。

 広東省の民間においては、土地神を「伯公」と呼ぶ。近代の恵州における土地神の祭りは「伯公会」といわれ、じつに盛大である。この日、会頭(講の長)は、村人から会費を集め、紙宝(弔事や祭事などに焼く紙製の元宝)、ロウソク、魚、豚肉、鶏、酒などの供え物を買ってくる。そして、村人とともに伯公を拝み、好運を願うのである。祭りが終わると、「伯公廟」の前に村人が集まり、飲んだり食べたりして帰宅するのだ。俗に「伯公を祭れば、必ず報われる」と信じられている。村人は祭事を終えれば、ようやく田畑を耕せるのだ。

 広東省雷州半島では、民間の人たちは住居の建築、井戸掘り、道路や堤防の建設などの前に必ず土地神を祭っている。そればかりでなく、子のない夫婦が子宝に恵まれるように祈るのも、土地神なのだ。男の子が生まれると、社日節には土地廟に小さな赤い灯籠をかけ、爆竹を鳴らして感謝の気持ちを表すのである。

 広西、貴州、湖南の各地に住むチワン、プイ、ミャオ、トン、トゥチャ、ヤオ、ムーラオ、マオナンなどの少数民族の村落では、いまも年に二回の「社節」が行われている。「春祈」(2月)、「秋報」(8月)という伝統の祭りである。

 各地のチワン族の村の多くには、三間ひと並びの「社王廟」が建てられている。中央に立てられた長方形の石を「社王」とし、その前には石板の祭壇が設けられている。社節の数日前になると、各家では忙しく鶏やアヒルを絞めて、チマキを包み、ツーバと呼ばれる餅をつき、香やロウソク、紙銭を買う。2月2日の正午前になると、各家がそれぞれ小さなテーブルと各種の供え物をもってくる。それらを廟の前に供えて、社王を祭る。香煙が立ちのぼるなか、大人たちが祈祷するとき、子どもたちは遊びたわむれ、若い男女は対歌をうたうため、また愛を語らうために出かけていく。祭りが終わると、それぞれ供え物を担いで家に帰る。親戚や友人たちと楽しく過ごし、春の訪れと気候が順調であること、そして五穀豊穣を祝うのである。

西南地区少数民族の村の土地廟

 ムーラオ族の村では、社節の際に供え物の肉を取り分ける習慣がのこっている。その年に、まわりもちの社節の主宰者となった村人は、供え物を買いそろえる責任を負う。また、全村の老若男女を廟の前に連れてきて、よく煮こんだ豚の頭やシッポや足を供える。豚をまるごと土地神に捧げることを象徴するものである。祭りが終われば、豚肉を分けて各家に配るのである。

 広西チワン族自治区のヤオ族の村には、いずれも「王廟」が建てられており、祭祀をつかさどり、農事をつかさどる「社老」(講の長)がいる。毎年、土地神の祭りになると、村人は、まわりもちで飼っていた豚を殺し、一部は家ごとに均等に分け、一部は土地神の祭りに用い、その後、祭祀に参加した者たち(一家から一人の成年男子)が廟前に集まって、会食をする。酒を飲み、肉を食べながら、社老が伝える村の取り決めに耳を傾けるのである。古代の社節が、政治宣伝や教育活動にも利用された遺風であろう。

竜を迎え雨を降らせる

貴州ミャオ族の農家の土地神の神棚

 「2月2日は、竜の台頭」。旧暦2月2日は、24節気の「啓蟄」の前後である。気候が暖かくなり、冬眠していた虫やヘビが起きるころだ。民間ではこの日、竜も頭をもたげて天に昇ると考えられた。そのため、この日の明け方、農家では草木、または米ぬかを用いて、地上に一本の線を描くように撒く。河辺や井戸の周りから、室内の水甕の辺りまで、すじのように撒いてくる。さらに水甕の周りに撒くこともある。こうしたならわしは「引竜回」(竜が帰るのを引く)といわれる。雲を呼び、雨を降らせる竜を迎えて、その年が雨に恵まれ、五穀豊穣となることを表している。

 竜を迎える祭日であるだけに、民間では、この日の食物にいずれも竜の名前をつけている。この日の麺は「竜鬚麺」(竜のひげの麺)、この日に作った三日月型のギョーザは「竜牙」、小麦粉をこねて焼いた烙餅、煎餅は「竜鱗餅」……。台湾の一部の地方ではこの日、薄い煎餅を作るならわしがある。その煎餅に、よく炒めたもやし、細切りにしたタケノコ、ニンジン、肉の炒めなどを巻いて、まるで竜の形のように細長い春餅にする。また、「子どもが竜のように、ひとかどの人物になるように」と願う親たちは、子どもを床屋へ連れて行く。竜が頭をもたげるように、成功することを願っているのだ。さらに、この日は女性に針仕事をさせてはならないという。竜の目を針でつき刺してしまわないようにと願っているのだ……。

 じっさい、この世に竜などはいない。古代中国の華夏氏族のトーテムであった竜は、もともと人の頭にヘビの体の像だった。華夏氏族の始祖とされる伏羲と女豢(中国の創世神話にみえる神)、古代伝説上の帝王である黄帝、治水の英雄・夏禹の父親である鯀などは、いずれも人の頭にヘビの体をもつか、死後に竜となって昇天したと言い伝えられている。

 その後、華夏氏族は他の氏族を併合し、融合するなどして、他氏族のトーテムの特徴を吸収していった。そのトーテムは徐々に、鹿のようなツノ、ラクダのような頭、エビのような目、牛のような耳、ヘビのような首、大ハマグリのような腹、鯉のようなウロコ、トラのような足、鷹のようなツメという竜のイメージとなっていった。そして、竜にさまざまな神秘的な色彩を与えたのである。大きくもなり、小さくもなる。天に昇り、海にもぐり、雲を呼び、雨を降らすことができる……。こうして古い農業国として、春に田畑を耕し、種をまくころになると、とくに干ばつによく見舞われる北方地区の人々は「引竜回」の祭りによって、春の竜を迎えて雨を降らし、種まきの成功や豊作を願うのである。

 「2月2日、竜の台頭、大倉が満ちて、小倉があふれる」という広く知られる民謡は、この「春竜節」をもっともよく解説している。

 中国では春になると、この春竜節のほかに、女豢を祭る「天穿節」がある(言い伝えによると、女豢は天が崩れて洪水を起こしたときに、五色の石を練って天を修繕した女神だとされる)。また、太陽神を祭る「中和節」、花神を祭る「花朝節」などがある。いずれも天候が順調で、万物が繁栄し、農業の豊作と人々の幸福、安寧を祝う祭りなのである。(2005年3月号より)

 

 
   
                              祭りの歳時記B 春竜節

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