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清明節の墓参りの様子を描いた清代の図書の挿絵『清明戴柳図』 |
清明節は毎年、4月5日前後である。この日は、人々が墓に参って先祖を祭り、野山に出かけて春の遊びをする民間の祭日である。
清明節は農暦(旧暦)の24節気の一つ。春風が吹き、暖かくなると、空気は新鮮で爽やかになり、天地は明るく、清らかになる。このため「清明」と呼ばれる。
しかし、この時節は、雨が次第に多くなる。親に仕える道を重視する中国人は、「生者に仕える如く死者にも仕える」という考え方から出発し、墓を先祖が地下に住んでいる場所と見なし、雨季が到来する前の清明の季節にはまず、風雨に一年間さらされてきた墓を修復、整理し、草を刈り、土を盛らなければならない。そして供物を並べて礼拝し、先祖にご加護と平安を祈るのだ。
反対に、もし墓に土を盛らず、先祖を祭る人がいなければ、跡を継ぐ子孫が絶えてしまった家と見なされる。「子孫がいれば清明節に墓の上に紙を掛けてくれる。子孫がなければ、墓の上には何もない」と言われる。「清明節に墓を掃き清め、先祖を祭らない者は、死後、豚や犬になる」と非難される。
亡くなった人に想いを馳せると、悲しくなり、涙が出るのは避けられない。しかし、民間で行われている墓参り、とくに一族がその祖を祭る宗族の墓参は、往々にして厳粛であり、また楽しいものだ。
広東省の客家の山村では、以前は、宗族が共有の田や山や養魚池を所有しており、その収益は主に、先祖の祭祀や子弟の学資援助に使われていた。後に、共有の田や山はなくなったが、家庭ごとに金を徴収して、豚や鶏、魚、果物さらに線香や蝋燭、紙銭(紙で作った紙幣)などの祭祀用品を買い整える。そして清明節の早朝、一族の者はシャベルや鎌を持ち、祭祀用品を担ぎ、色鮮やかな旗を掲げ、銅鑼や太鼓を打ち鳴らして出発する。
先祖の墓に着くと、みなでまず周囲の雑草を鎌で刈り、墓の土をシャベルで盛り、墓前の台の上に各種の祭祀用品を並べる。そして鶏をさばき、その血を滴らせた紙銭を墓の上に、土の塊を乗せて置く。これを「掛紙」と呼び、墳墓を祭る象徴である。
さらに朱筆で墓碑に刻まれた名前に朱を入れ、世々代々、先祖の恩沢を忘れないことを表す者もいる。
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広東省の客家地区では、一族が集まり墓参りする(写真・丘桓興) |
その後すぐに、人々は線香を立てて、世代ごとに長幼の順で厳粛に鞠躬如とし、地にひれ伏し、先祖のご加護と一族の発展を心の中で祈るのである。最後に紙銭を焼き、爆竹を鳴らす。
先祖の墓は村から遠く離れているので、祭祀が終わると、土に穴を掘って急ごしらえの竃をつくり、飯を炊き、家ごとに平等に分配されて余った祭祀用の食品を煮る。最後に、みなが墓前に半円形に座り、酒を飲み、肉を食べる。
この野外での食事には、付近の家の家長が丁重に招かれる。彼らがいつも先祖の墓を見守っていてくれる苦労に対し感謝するためだ。食事が終わると、一族の人たちは、分配された祭祀用の食品を持ち、銅鑼や太鼓を鳴らしながら帰ってゆく。
現在、清明節の墓参りの風習は、非常に盛んになっている。一般の家庭の墓参り、各地の学校や機関が青少年を組織して行う革命烈士の陵墓の墓参、各界の代表による、中華民族の先祖である黄帝や炎帝の陵での盛大な祭祀。これらはみな、先人の業績に想いを馳せろことによって、苦しみに耐えた創業の精神を子孫が継承するのが目的だ。
近年は、墓参りのマナーが提唱されている。都市の住民の多くは、生花や花輪を供え、村の住民は、山にある墓に詣でるときにも、もはや紙銭を焼くことはなくなった。それは、国家の財産と自然の生態系に損害をもたらす山火事を引き起こさないためである。
野山に遊び、柳の枝を挿す
江蘇、浙江両省の水郷地帯は、川がたくさん流れており、墓の多くは遠い山地にある。そのため、墓参りは一日がかりだ。昔は、お金持ちの人たちがよく船を出した。その船は、祭祀用品を積んだ「祭品船」、男が乗る「男賓船」、女が乗る「女賓船」、料理人が乗る「厨師船」があり、その規模は大きく、堂々たる船団である。
封建的な教えに束縛されて、日ごろ、家に引きこもって外出しない大家の令嬢たちにとっては、清明節の墓参りは、めったにない気晴らしの時である。彼女らは真新しい服を着て、舟に乗り、沿岸の風景を愛でる。さらに山野で遊び、楽しむ。道すがら、歓声と笑い声は絶えず、実に楽しい。
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清明節に亡くなった身内の墓に参り、花束をささげる上海の市民 |
男性にとっては、船旅で、幸いにして美しい婦人にめぐり会えるのが楽しみだ。地元ではこう歌われている。「正月灯 2月鷂 3月上墳船上看嬌娘」(正月は元宵節に灯籠を愛で、2月は凧を揚げ、3月は墓参りして、舟の上でかわいい娘を見る)
もともと、清明節は春の遊びの日であった。その風習は、古代の3月3日の上巳節にその源がある。この日は、朝廷の百官から百姓平民まで、とりわけ若い男女はみな祭りの盛装に身を包み、食べ物を持って郊外に春の遊びに出かける。宮廷人や富貴の人たちはさらに野原に天幕を張る。彼らはまず川に入って身を清めてから岸に上がり、心ゆくまで遊び戯れる。はなはだしい場合は、ここで密会し、野合することさえある。
これが上巳節の「清め」であり、生命の源である水の中で一年の穢れと不祥を洗い清め、あわせて後継ぎの子を得て、一族の人数が増え、発展することを祈るのだ。
後に、上巳節や川に入って身を清める習慣は、北方では次第に消滅したが、南方では民間で、なお清明節に行われる春の野遊びの風習として残っている。とくに南方の少数民族は今でも、3月3日に「歌節」を挙行し、清明節にはブランコ遊びや凧揚げ、綱引き、弓矢の射的などの遊びを行っている。
興味深いことは、古人が卵と棗を生殖崇拝の物としていることだ。彼らは川に入って身を清めるとき、川の中に卵と赤い棗を流し、漂流してくる卵や棗をすくい取ることによって、子宝が授かる象徴としていた。
魏晋時代(220〜420年)には、文人や詩人が漂流物を卵や棗から酒盃に変えた。これは、酒を入れた酒盃が流れついたところにいた人が、直ぐに詩を吟じ、対句を作る。そうしなければ、罰としてその酒を飲まなければならないというものだ。これは「曲水流觴」(日本では「曲水の宴」という)と呼ばれる雅な遊びで、かつては大いに流行した。晋代の大書家、王羲之の『蘭亭集序』の中に、こうした文人たちの遊びが記述されている。
この風習は日本にも伝わり、紙で作った人形を流すように変わり、後にはそれが泥や木で作られた人形になった。それが現在も広く行われている雛祭りである。
清明節には、柳の枝を髪に挿したり、柳で作った輪を頭に載せたりする風習もある。もし清明節に柳の枝を挿さないと、病気や貧困になり、早く老いると民間では信じられている。「清明節に柳を挿さなければ、紅顔変じて皓首(白髪頭)となる」といわれている。
墓参りから帰ってきたら、門の横木の上に柳の枝を挿し、子どもたちの頭の上に、柳で編んだ輪を載せてやらなければならない。柳で編んだ輪は、唐の時代、皇帝から大臣が賜った。
さらに、井戸端や馬車の上にも柳の枝を挿すこともある。このため、清明節は「挿柳節」とも呼ばれる。もともと、柳を挿したり、頭に載せたりするのは、これで毒虫を避け、百鬼を駆逐し、老化を防ぎ、世継ぎまで得られると民間では見なされているからだ。
人々がこれほどまでに柳を崇拝するのは、柳が春になるともっとも早く芽を吹くだけでなく、頑強な生命力と旺盛な生殖能力を持っているためだ。そこで柳の枝の力を借りて、幸福と安全、健康、一族の繁栄を祈念するのである。
懐かしいヨモギ餅の匂い
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江蘇省の水郷に住む人々は、清明節には船で墓参りする(写真・劉世昭) |
清明節のころは、各地にそれぞれ特色ある祭りの食品がある。
広東省の客家の山村では、清明節の前、村の娘さんたちが手に籠を下げて、野原から艾(ヨモギ)の若葉を摘んでくる。これを洗ってから、水に浸したモチゴメの中に入れる。さらにこれを石臼で粉にする。それに黒砂糖の汁を混ぜ、蒸して、青緑の色をした「艾 」(ヨモギ餅)を作る。
蒸しあがった蒸籠の蓋を開けると、厨房にはたちまちヨモギの葉の香りが満ち、ヨモギ餅の甘いかぐわしさや柔らかいモチゴメの美味さが、いまなお思い出される。ヨモギ餅には、湿気から起こる病を取り除き、目を良くし、熱をさまし、解毒し、女性の月経を整えるなどの効用があり、一種の民間に伝わる健康食品である。
江南の水郷の農家では、臼で撞いたヨモギの葉をモチゴメの粉の中に入れ、小豆の餡を包んで、手で丸い「青団」(ヨモギ団子)をつくる。これもまた味のあるものだ。
ヨモギを摘むことができない都市住民は、野菜の絞り汁を使って団子を青く染めて「青団」を作る。それはヨモギの香りはしないけれども、真っ青で玉のように丸く、本当にかわいらしい。これは墓参りのときに使われたり、自分の家で食べたりするほか、親しい友人への贈り物としても使われる。
麦の産地である北方では清明節の前、各地の農家の主婦たちが小麦粉で小鳥の形をしたお菓子を作る。これはまず、練った小麦粉の玉を鳥の形に捏ねてつくり、きれいな木製の櫛で小鳥の背中を軽く二回押さえて一対の翼を作る。さらに小鳥の頭に二粒の黒ゴマを押し付け、鋏で嘴を作る。こうして作られた、口を大きく開けて鳴いている小鳥は、蒸籠の中に入れられる。
蒸し終わると小鳥に色をつけ、糸で梁からつるしたり、柳の枝につるして、それを門の横木の上に挿したり、樹木に結びつけたりする。赤や緑の小鳥たちの群れで、農家の軒先には、春の気分が溢れる。
小麦粉で作った小鳥を「子推燕」と呼ぶ。それは、今から2000年前の晋国の家臣だった介子推を記念するものと伝えられている。
介子推は宮廷で政変があった後、晋の太子であった重耳に従って他国を流亡し、多くの艱難辛苦を嘗め尽くした。19年後、重耳は国に戻り、国の政治を取り仕切り、さらに晋の文公となった。しかし彼は、多くの家臣に知行や爵位を与えて賞したが、介子推のことは忘れてしまった。介子推は、母親とともに綿山に隠居した。
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北京のツバメ凧 |
後に晋の文公は、介子推のことを思い出し、人を派遣して、彼に山を下って封を受けるよう求めたが、実現しなかった。そこで晋の文公は、また人を派して、火を放って山を焼かせ、彼に下山を迫ったが、介子推は母親と焼死しても、山を下りようとはしなかったのである。
晋の文公は、介子推を記念するために、一日中火を焚くことを禁止し、人々は冷飯を食べなければならない日を設けた。これが、清明節の前の寒食節である。
実は、寒食節は、春と秋に、木をすり合わせて種火をとった昔の習慣にその起源を発する。当時、支配者は年に二回、種火を取って人民に配ったが、新しい火種を起こす一カ月前からは、火を使うことを禁じた。だから最初は、火を使わず冷たいものを食べる寒食の期間は一カ月間もあり、人々の健康に大きな影響を与えた。
このため、三国時代の魏の曹操(155〜220年)は、陋習を改革するよう命令し、寒食の期間を三日間にし、後に一日に減らした。唐の時代になると、朝廷は寒食節を行わないよう命じた。しかし民間では、禁止されても寒食節はなくならず、清明節の中に融けこんだ。北方の「子推燕」や南方の「青団」は、寒食禁止の名残りである。
このように、古代の上巳節、寒食節と墓参りなどの古い習慣とが融合して、最後には唐代に、清明節が次第に形成されたのである。(2005年4月号より)
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