旧暦の12月は、別名「臘月」といい、一番寒い農閑期にあたり、祝日がもっとも多い月間である。臘月8日は「臘八節」で、「臘八粥」を食べ、23日は、竈の神を祭る「竈王節」がある。大晦日は、旧年と別れを告げ新年を迎える日なので、とてもにぎやかである。
臘八粥を食べる臘八節
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今も一部の農村で広く用いられている竈の神の絵 |
臘八節の早朝、どの家も臘八粥を作って食べる。これは、米、アワ、もち米、アズキ、ナツメ、ピーナッツ、クルミ、栗などを煮たもので、最後に砂糖を入れて食べる。臘八粥は甘くておいしく、栄養豊富で消化もいいので、年齢を問わずだれにでも適している。庶民の間ではこの日、作った臘八粥をお互いに贈りあい、鶏や犬、豚、牛にも食べさせ、庭の果樹の根元にもかける。これは果樹が臘八粥を食べると、来年必ず多く実をつけると言われているからだ。
以前は、臘八粥を食べる前に、まず仏壇や先祖の位牌の前に臘八粥を供えた。臘八粥を食べる風習は、臘月に先祖を祭ることが始まりとされている。また仏教が中国に伝わった際、お釈迦様が苦行のすえ飢餓に倒れ、臘八の日に羊飼いの娘が差し出した「羊乳の粥」を食べ体力が回復し、悟りを開き、道を得て仏となったという話が広く伝わったことから、庶民の間では、この日にお粥を作り、仏に供える習しが生まれた。
またこの風習は、アズキで邪気を追い払うことと関係がある。昔の人々は、アズキを銃の玉と見なし、アズキを撒いて魔除けができると思った。そしてアズキのお粥を食べることで邪気を払い、平安を祈ったのだ。その後、この風習は仏教とともに日本に伝わり、今でも、祝い事の席には赤飯が欠かせない。
臘八粥はもともと、アズキと様々な穀類が入っているだけだったが、その後、八種類のものを使って作られるようになった。東北地方ではマツの実、江蘇省、浙江省ではハスの実、北方では干し葡萄、南方ではリュウガンなど、各地の特産品を使うことで、臘八粥がより豊かなものになっていった。
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年越し用品を買い求める東北の農民は、春聯、年画、門箋を選んでいる |
しかし、もっとも工夫が凝らされたのは、やはり宮廷臘八粥である。清朝宮廷の決まりでは、雍和宮で盛大な法会を行い、王公や大臣が見守る中、直径2メートル、深さ1.5メートルの釜を設け臘八粥を作る。最初にできたお粥は最高とされ、まず仏に供えられ、次に宮廷に献上された。そのあと王公や大臣、ラマ僧、文官、武官に届けられた。
現在、臘八粥を好む人が多くなった。しかし、人々の生活リズムが早くなり、臘八粥を作るには手間がかかる。そこで食品メーカーは、手軽に作れる臘八粥の材料を組み合わせたセットを販売し、消費者から好評を得ている。また缶入りの臘八粥(八宝粥とも呼ばれる)は、食べたいときに買うことができ、その便利さから特に若い人たちに人気がある。
この日には、主婦たちが、皮を剥いてきれいに洗ったニンニクを酢に漬け、臘八酢を作る。この酢は、春節に餃子を食べるときなくてはならないものである。
青海省互助県の漢族、トウ族の青年は、臘八の朝早く、川に張った氷を切り出して持ち帰り、老若男女がそれを分けて食べる。また、仏壇や庭、軒下、田のかたわら、厩に供え、来年の五穀豊穣と、人と家畜の隆盛を祈る。
面白いのは、臘八はめでたい日だと思われたことだ。「臘八は良い日で、娘は嫁となる」と、この日に新婦を送り、迎えて、結婚式を行う家がとても多い。
麦芽糖で竈の神を祭る
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清時代の民間年画『忙臘月』 |
臘月の23日は竈王節である。各地では竈の神をまつり、天上に送る習わしがある。
この日にはそれぞれの家で、竃の間に竈の神の絵を張り、麦芽糖やお茶、お酒、料理を供え、線香を焚いて祭る。
竈の神祭りの起こりは、古代の人たちの火に対する崇拝である。その後、土や石で作った竈ができてから、「火の神」は「竈の神」に変わった。最初の竈の神は、まげを結った老婆だったが、3000年前の周代(紀元前1046〜同256年)、男性が権力を持つようになってから、竈の神も男性になった。人々の間で言い伝えられた竈の神は、張単という名前も持っていた。古代では、「男女は直接、付き合うことなかれ」という決まりがあり、嫌疑を避けるために、女性は竈の神を祭ってはいけないという習しもあった。
その後、竈の神は、最高神である天帝の3番目の弟となる。彼は下界し、俗世の食べ物を楽しみながら、それぞれの家の言行を見張った。そして、臘月の23日に天宮に戻り、天帝に各家の事情について報告した。天帝はその報告によって、「よい言行は誉めたたえ、悪い言行は罰する」とした。そこで、この日も各家で供え物をし、お祭りをする。そして「竈の神様、どうか、いいことはお話になり、悪いことはお話にならないように」と、心を込めて祈るのだ。さらに主婦たちは、高粱のわらで竃の神が乗る馬を編み、竈の神が何事にも満足して天宮に帰ることができるようにした。それでもなお人々は心配で、甘くてねばねばする麦芽糖を絵に描かれた竈の神の口に塗った。それは竈の神が天宮で、あることないことを言いふらし、家に面倒なことをもたらさないようにするためだった。
祭りが終われば、家の主人は、竈の神が天に昇ったことを表す意味で、炊煙でいぶされた竈の神の絵を焼いた。そして大晦日には、新しい竈の神の絵を買い、「天上ではよい報告を、地上では平安を」と書いてある対聯(対句を書いたもの)を竈の間の壁に貼り、竈の神を迎えるのだ。
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大晦日の夜、農家の人は家系図を掛け、供え物を並べて先祖を祭る |
竈の神を祭ったあとは、新年を迎えるための準備で忙しくなる。東北にはこういう民謡がある。「24は部屋を掃除し、25は豆腐を作り、26はお酒を買い、27は鶏をしめ、28は小麦粉を発酵させ、29は香炉の表面に黄色い紙を張る(先祖祭りの準備をする)……
掃除は、おもに家屋と先祖を祭る祠堂で、南方の人たちはベッドやタンス、机、椅子などを川辺に運び、洗ってきれいにする。
臘月は年越しの準備で忙しくなる。農家の人々は服を新調し、窓に紙を張り、窓飾りの切り絵をし、提灯を作り、年越し用品を買い、色々な食べ物を用意する。それは、お酒を醸造し、豆腐を作り、お餅をつき、豚をつぶし、ベーコンを作り、腸詰めを乾かし、鶏やアヒルをしめ、饅頭を蒸し、アズキあんのキビ餅を包む……。主婦たちは目が回るほど忙しい。しかしこの忙しさは、生活がよくなり衣食が豊かになったからだと、心の中はうれしさでいっぱいなのだ。
しかし今の都会の人たちは、年越しに対する考え方も変わり、旅行に出掛けたり、レストランで「年夜飯(年越しの食事)」を食べたりするようになった。家で年を越す場合にも、まず車でスーパーへ行き、一度で年越しに必要な物をまとめて買ってくるようになった。
旧年を送り、新年を迎える
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東北の農家は、大量のアズキあんのキビ餅を作り、年越しの準備をする |
大晦日は、1年の最後の日で、もっともにぎやかな日である。朝食をすませると、各家はまず「門神(門を守る神)」の絵や対聯を張る。門神の絵は、勇猛な武将を描いたものがほとんどで、それを以って門を守り、魔除けをし、出入安全を願う。庭の門の両側には、「天増歳月人増寿 春満乾坤福満門(新しい1年が訪れ、人の寿命が伸び、春は天地に満ち、福は家に満つ)といった対聯を貼る。母屋の門には「天時地利人意好 瑞雪豊年又一春(天の時、地の利、人の和なり、瑞雪、豊作を兆して又1年)、台所には「厨房生香(台所がおいしいものの香りで満ちあふれる)」、倉庫には「五穀豊穣」というものを貼る。門には、「春」「福」などと書かれた4角の赤い紙を張り、色とりどりの門箋(飾りの切り紙)で門の上にある横木を飾れば、たちまちこの家は輝きだすのだ。
広間や寝室には年画が貼られる。この年画は木版刷りで、図柄は、四季の平安や、長寿と豊作、家族の幸福を祝うものが多い。構図豊かで、色彩も美しく、丸々と太った赤ちゃんと鯉、蓮が描かれた「蓮年有魚」は、「連年有余(連年余りある、豊かになる)」と発音が同じなので人気のある年画だ。
東北の農婦は、自分で作った切り絵の「窓花」で、窓や壁、天井、家具を飾り、都市では、広間や書斎に生け花や鉢植えを並べる。牡丹、竹枝は「富貴平安」、松、竹、梅は、健康や長寿を象徴し、満開の水仙は、よい香りで喜ばしい様子を表している。広州の人たちは、花市を回り、たわたわと実るキンカン鉢植えを買ってきて広間に置き、これは「吉星高照(幸運に恵まれる)」を象徴している。
大晦日の夕食をすませ、1年の垢を落とすために風呂に入り、新しい服や靴を身につける。家長は、先祖を迎えて新年を祝うために墓参りに行き、先祖を迎えて年を越す。一番奥の部屋には、先祖の像や名前を書いた家系図を掛け、ある家は祖先の位牌を立てて様々な供え物を並べ、盛大に先祖を祭る。広東省、福建省などでは、各家とも供え物を祠堂へ持って行き、先祖を祭る。
先祖を祭ったあと、年越しの食事をする。これは一家団欒と決まっていて、帰ることができない家族のためにも、お碗や箸を並べて、みんなが一緒であるようにする。この時に食べる料理には、色々な願いがこめられている。「余」と同じ発音の魚や、家族団欒、裕福、長寿を象徴する、肉団子、豆腐、春雨などを取り合わせたスープを食べる。
年越しの食事が終わると、家族全員が寝ずに新年を迎える。昔は、マージャンやトランプ、なぞなぞ遊び、中国将棋をしながらお屠蘇を飲み、新しい年を迎えたものだが、今は家族がテレビの前に座り、ギョーザを包みながら、春節の夕べの番組を見る。
12時になり除夜の鐘が鳴ると、外には爆竹の音が響きわたる。打ち上げられた花火は、色とりどりに夜空を飾り……喜びに溢れる新年がやって来る。(2005年12月号より)
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