◆あらすじ
父と子、兄と弟、主君と家臣が権力の座を争う動乱の五代十国時代。某国皇帝の弟が兄を殺し、帝位を奪う。先帝の后の婉は隠遁して芸事に逃避する皇太子無鸞のもとに早馬で父王の死を知らせるが、新帝が皇太子のもとに刺客を放ったことを知り、皇太子と自分自身の保身のために新帝の后となる。実は婉は皇太子の幼馴染で、かつての恋人でもあった。
宮中に戻った皇太子無鸞は、父が叔父に毒殺されたことを確信し、誰も信じられなくなり、自分に純愛を捧げる宰相の娘青女をも拒絶する。新帝と后の即位式の席で先帝暗殺を暗示する芝居を打った無鸞は異民族の元に人質として送られることになるが、新帝は密かに道中で皇太子を刺し殺すよう命じる。
文武百官を招待しての盛大な宴の夜、新帝の毒殺を謀る后と、この機に乗じて権力を我が物にせんとする宰相父子の陰謀が、さらなる悲劇をもたらす。
◆解説
正月映画からの脱却を図った馮小剛監督渾身の歴史超大作は、シェイクスピアのハムレットを中国に置き換えた悲劇のロマン。全体的には、なかなかの出来だと思う。少なくとも、同じ題材をチベットに置き換えた『ヒマラヤ王子』のような、ただチベット風味に仕立てただけのストレートな翻案ではなく、后を皇太子の実母にしなかった点に工夫がある。そして、主役を悩める王子ではなく、男の権力に翻弄される后にし、男の道具に甘んじず反撃に出て、自ら権力を手中に収めようとする女として描いたところが、これって実はフェミニズム映画なんじゃないの? とすら思えてくる。
実は馮小剛の映画は前作の『天下無賊』といい、その前の『手機』や『一声嘆声』といい、身勝手な男たちを描くことで、それにふりまわされる女性の孤独を浮き彫りにすることが多かった。そして、最後には必ず女性が苦い勝利を得るという形で終わるのも共通している。男権主義の監督の多い中国映画界にあって、馮小剛はなかなか興味深い監督だと私はかねがね思っている。
ただ、役者の演技も好し、渋い美術も好し、音楽も好し、と他の面ではかなりレベルの高い娯楽作品に仕上がっているのに、なぜこれをオリジナルの物語にできなかったのかという無念さは残る。ヌーベルキュイジーヌ・シノワが、いくら料理人の腕前が良くても、所詮はオリジナルの中華料理と西洋料理にかなわないのと同じだと思う。
◆見どころ
張芸謀監督の『満城尽帯黄金甲』とこの作品を見比べる醍醐味は、中国の新旧「影后」の演技対決。同じように権謀術数に巻き込まれていく后の役を演じて余裕綽々のコン・リーとまさに真剣勝負のチャン・ツィイー。でも、女の陰の部分をより出しているのはチャン・ツィイーのような気もする。アップになるといつも小鼻がヒクヒク動いていて、必死で演技しているなあ、とつい「頑張れ」と声をかけたくなるのは、やはりコン・リーに迫力では負けているのかもしれないが。
『LOVERS』の「傾城の歌」に対抗したのか、こちらは同じように古詩の「越人の歌」が周迅によって歌い踊られる。これもなかなか味わい深く、物語のテーマともよく合った歌詞で、こういう出典の上手さは中国映画ならではの文芸色である。また、皇太子が竹林の中で面をかぶって踊るシーンは何となく日本の能のようだし、父王暗殺を暗示する芝居は狂言のようでもあり、西洋の物語に東洋風味をミックスした趣向も面白い。
中国での公開当時、葛優の、格調高いのに妙に下世話な台詞がだいぶ中国では観客の笑いの種となったとかで、監督は負け惜しみか、「悲劇を見に行って笑えたのなら、二倍お得なのでは?」と答えたそうだが、私の拙い翻訳での日本語字幕では、そこまでは狙えませんでした。(2007年5月号より)
水野衛子 (みずのえいこ)
中国映画字幕翻訳業。1958年東京生まれ。慶応義塾大学文学部文学科中国文学専攻卒。字幕翻訳以外に『中国大女優恋の自白録』(文藝春秋社刊)、『中華電影的中国語』『中華電影的北京語』(いずれもキネマ旬報社刊)などの翻訳・著書がある。
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