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神やどる橋のある暮らし
 
 
1984年の年末に完成した「新高橋」(写真は86年撮影)
文・写真 丘桓興

 授業が終わり、帰宅してカバンを置くと、水牛を河へ水浴びに連れて行った。夏から秋にかけての毎日の日課であった。

 水牛が水浴びをしている間は、友だちとともに、傍らにある木橋の上で遊んだものだ。村を流れる渓峰河には、合わせて六本の橋があった。遊んだ橋は、アーチが二つある木橋である。高さは約5メートル。全郷一の高さをほこり、「高高橋」と呼ばれていた。橋床の板は(前と後ろで)長さが異なり、短い方は5メートル、長い方は10メートル。橋床の長い方を歩いていくと上下に揺れて、それを楽しんだものである。橋の真ん中に立って手をつなぎ、リズムに合わせて橋を揺らした。都会の子どもが、公園でトランポリンを楽しむのと同じである。橋の上に仰向けになって寝転がり、空に流れる雲を眺めたこともある。まさに、飄然とした仙人になったような気がした。もちろん通行人があれば、とくに天秤棒を担いだ人があれば、ただちに端へ立ち直り、通路を譲った。そんな時、揺れる橋のたもとで足を止めたおばさんに「橋床が壊れたら、どうやって学校へいくんだい!」とよく叱られた。

 しかし、そんな橋床よりも、橋脚が先に壊れてしまった。1983年の初夏、連日の大雨で鉄砲水が発生し、中央の橋脚が崩壊した。洪水のあと、村人たちは橋の下に、二つの小さな橋脚を築き、臨時的な木橋を築いた。しかし、木材三本でつなぎ合わせただけのその橋は、危険であることこの上なかった。とくに老人や子どもが橋を渡る時は、みんなが心配した。そのため子どもが登校する際には、私の母が二階のいちばん外側の部屋「口唇間」に上がって、橋を渡る子どもたちをチェックした。一人、二人、三人……子どもがみんな道路に出ると、ようやく母は安心したのだ。

 しかし、やはり事故は起きた。ある日、兄の次女の彩紅ちゃんが橋から落ちた。子どもたちが大声で助けを求め、百メートルほど下流の八角楼で救出された。また、高思郷の湯くんという少年は、八角楼のおじさんの家に祭日を過ごしに来たが、橋を渡ろうとした時に河へ落ちた。救出されたが、炎症を起こした耳は不自由になった。

 毎日、子どもの通行を心配するのは、耐えがたいものである。84年夏、母と旧家の天福おじさんたちが検討しあった結果、寄金を募り「高高橋」を再建することを決めた。私が送った30元も母のところに届いたが、それは一口目の寄金となった。母は各家庭を回って寄金を募った。客家人は古くから善行を好む習慣がある。とくに橋や道路、学校、水利施設などの建築には熱心で、この時もまもなく6000元が集まった。

1984年の年末に完成した「新高橋」(写真は86年撮影)

 今度は、どのような橋を造るかが問題になった。杉の大木を集めるのは難しいので、橋脚が三本からなる木橋を造ろうと、提案した人もいる。母は、高くて丈夫な石のアーチ橋を造ろうと強調したという。橋の工事は、地元でも有名な五華県の石工に依頼した。七カ月後、もとの場所にすばらしい石のアーチ橋が完成した。この善行を記念するため、橋の名前を「新高橋」に改めたほか、橋のたもとに5元以上の寄付者の名前とその金額を刻み込んだ石碑を立てた。

 アーチ橋の完成後、母はまた人に頼んで、橋のたもとに「橋伯公廟」という小さな祠を再建した。客家人は、民間の神々すべてを「伯公」(おじいさん)と呼んでいる。たとえば、橋の神は「橋伯公」、木の神は「樹伯公」、石の神は「石伯公」と呼んでいる。県城(県庁所在地)には、「石伯公路」というストリートもある。橋伯公廟は幅が約1メートル、奥行きが80センチ、高さが90センチで、祠の前には祭祀用の香炉や盃が配されている。

 村の老人が橋の神の話をはじめると、とまらなくなる。ある年の春節(旧正月)、八角楼の曽三ばあさんが対岸の祖廟を祭るため、供物を担いで橋を渡った時のことだ。霜の降りていた橋床で滑り、ばあさんは河へと転落。しかし、まったくケガはなかった。また、隣村の石湖村に住む江さんという青年は、ちょっとした不注意から自転車もろとも橋の下へと落っこちた。自転車の車輪がゆがんだものの、ケガはなかった……。いずれにしても、それは「神の霊験が人々を守っているからだ」と考えられている。

 私自身、忘れられない思い出がある。52年の初秋のある日、私は河で牛に水浴びをさせていた。夕暮れになり帰ろうとして、祠のそばの土塊をすくって牛に投げた。牛を岸に上がらせるためである。その時、一本の杉の大木が橋伯公廟の上に置かれていた。海まで運ばれ、船のマストに利用されるものである。担ぎ人夫が祠の上に置いていたのは、担ぎやすいからだった。しかし、牛の群れが競って岸に上がったために、杉の木が転がり落ちて、私の左足にぶつかった。私は身動きできなくなり、「だれか助けてー」と泣き叫ぶほかなかった。

 近くでサツマイモを植えていた母とおばさんたちがその叫び声を聞き、急いで駆け寄ってきた。大木に押さえ込まれた私の左足を見て、血の気が引いたようだった。ところが杉の木を持ち上げると、私の左足はケガもなく、骨折もしていなかった。みんなが喜んだことは言うまでもない。左足に触れてみると、痛みはなかった。母は疑心暗鬼だったが「歩いてみなさい」と言い、いつものように歩く私を見て、安心して仕事に戻った。

 大木に押さえ込まれた足が、ケガをしなかったのはなぜか? もともと橋伯公廟の周りには、栗石を敷いた円形のくぼみがあった。高さは約10センチ。そのくぼみの範囲が、神の地を表していた。杉の木が転がった時、このくぼみのお陰で私の左足は難を逃れた。こうして、春節や旧暦6月6日の「橋伯公」の誕生日になると、母はきまって祠の前に線香を立て、茶を供えて、お参りをするのであった。

 客家人が橋の神を崇拝するのは、河と橋の多い山間地域に客家人が住んでいることとかかわりがある。昔は河の流れが急で、橋も小さかったので「無事に橋を渡るように」と願って、橋を崇拝するさまざまな習俗が生まれたのである。知る限りでは、福建省永定県の客家の村々では、「橋神廟」のろうそく型の電灯が24時間ともされている。また、台湾に移った客家人は春節の時、橋のたもとだけでなく、トンネルの出入り口にも線香を立て、金色の紙銭を焼いて、橋の神を祭っているということだ。(2004年5月号より)

 
  【客家】(はっか)。4世紀初め(西晋末期)と9世紀末(唐代末期)、13世紀初め(南宋末期)のころ、黄河流域から南方へ移り住んだ漢民族の一派。共通の客家語を話し、独特の客家文化と生活習慣をもつ。現在およそ6000万人の客家人がいるといわれ、広東、福建、江西、広西、湖南、四川、台湾などの省・自治区に分布している。