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貧しき中に温もりのある寮生活
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現在の僑興中学 |
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文・写真 丘桓興
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1953年9月、広東省・高思郷にある「高思僑興中学」(略称・僑中)の入学日に、私たち四人の同級生は連れだって行った。私は、かつて母の嫁入り道具だった大きな赤いトランクをもらい、そこに必需品を詰め込んだ。しかし、まだ空きがあったので、いとこの丘梅興の小さなトランクもそこに入れた。そして、この大きなトランクを縄を使って竹ざおに組み、梅興と二人で担いで向かった。いとこの福蓮がそれを見るなり、「二人して赤いひつぎを担いで入学するみたいね」と言って笑った。石畳の道を踏みしめながら、山を越えた。大きなトランクがゆらゆらと揺れるため、その骨の折れることといったらなかった。8キロの道中で、何度休んだか知れなかった。いずれにしても、昼ごろには学校に着いた。
客家人には、文化や教育を重んじる風習がある。とくに海外にいる華僑たちは、「ふるさとの発展に、教育は欠かせない」ことを痛感している。僑中は、インドネシアなどに住む高思郷出身の華僑の寄付で建てられたものだ。華僑の人々が学校を興した功績を記念するため、この学校を「僑興中学」と名づけたのである。
にぎやかな県城(県庁所在地)の学校と比べると、荒れはてているし、物寂しく感じられたが、それは高思郷の識者と華僑が話しあい、教師や生徒が都会の喧騒にじゃまされないようにと、静かな山あいに建設したものだった。
学校は山によりそい、南向きに建てられていた。幅の広い石段を上ると、各種の体育用器材が設けられたグラウンドがあった。さらに上ると、縦横60余メートルの正方形のキャンパスがあって、南にはロビーや図書室、事務室、教師用宿舎、教室二つが並んでいた。西には階段状になった教室や学生寮などがあった。北には教室、学生寮、未完成の講堂、舞台が並んでいた。東には大教室と厨房が設けられたが、一間一間、塀でくぎられた土台だけの部屋が残っていて、生徒たちの格好の台所とバスルームになっていた。
珍しいのは、正方形のキャンパスの真ん中に鐘楼がそびえていたこと。その前の通路の両側には二つの花壇があり、コノテガシワや花、ブドウなどが植えられていて、緑が多く、鐘楼をより大きく見せていた。聞くところによると、このキャンパスはインドネシアの湯さんという建築家が設計したものだという。彼は、客家の伝統的囲屋(四合院のような家屋)と鐘楼、講堂、花壇など西洋風の建物を一体化さ
ケ、このように風通しがよく、採光にすぐれ、静かで安全な学校を造ったのである。
それにしても、50年前の辺ぴな山村は、必ずしも条件がよいとは言えなかった。いまから思えば、3年間の中学生活は、たいへん辛いものだった。まず、寮生の食事の話から始めよう。私たちは毎週土曜の午後、学校からそれぞれの自宅へ帰った。そして日曜の午後になると、一週間に必要な米、野菜、漬け物、薪を担いで学校に戻った。その晩はそれぞれが野菜を炒めて食事をとるが、それからは毎食、自家製の漬け物がおかずとなった。こうした食事を少しでもよくしようと、時には家から持ってきたもち米を煮て、そこにラードと黒砂糖をまぶして食べた。あまくて粘りけがあり、食欲を満たしてくれるおいしいご飯であった。
当時、学校でのご飯の作り方は、じつに原始的だった。山で働く村人と同じように、ガマで編んだ小さな袋(客家語で「飯巣」と言う)に米を入れ、袋の口を縄でくくって、大鍋に入れてよく煮込む。その後、マークを記して袋につけた竹札により、自分の「飯巣」を取りだした。そこからご飯を茶碗にあけるか、それをそのまま茶碗に使い、漬け物を添えて食べたのである。毎食のおかずが漬け物だったら、栄養不足になってしまう。それが続けば、学生たちの健康を害するだろうと教師たちは心配していた。そこで翌年、学生食堂がオープンした。週に三角六分の食費を払えば毎食、野菜料理が食べられるようになったのだ。
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いまの寮生たちは、寮で食事をとるのが好きだ |
客家人は、とくに衛生に気をつけていた。夕食後は必ず湯を使って、体を洗った。その湯というのは、「飯巣」を煮る鍋を洗ってから沸かしたものだ。水は裏山から竹筒で涌き水を引いて、池に流しこんだり、または直接鍋に引き込んだりした。湯が沸くと、それぞれが一桶くみ上げて、浴室で体を洗った。湯に水を混ぜて使いやすくするため、各浴室にも涌き水を引いた竹筒が設けられていた。私たちはそれを、「自然の水道」と呼んでいた。体を洗った後は、着替えの服を洗面器に入れ、学校の西側にある渓流へ洗濯に行った。みんなが川岸の平らな石を洗濯板に使っていたので、そのうち石はつるつるになり、玉のように輝いた。
当時、学校には電気がなかった。夜、自習するときは、みんながランプに火をともし、それを机の左側に置いて宿題をした。ランプでは煙の汚染はいうまでもなく、薄暗いし、目にも悪い。そのため翌年、学校側がガス灯を購入し、それを各教室に設置した。ガス灯の明るい光のもとで勉強するのは、じつに心地よいものだった。58年、学校側はモーターを一台購入し、ディーゼル油を使って自家発電を始めた。これにより、ランプとガス灯の歴史が幕を閉じた。その後、村では小型の水力発電所を建設、学校と村全体に電気が輝いたのだ。
僑中での暮らしを振り返ると、辛さのなかにも温かさがあった。当年の私は、全校でもっとも年が若く、背丈も低かったので、同級生たちはみんな私を弟のように扱っていた。教師も親のように、私をかわいがってくれた。水の入った桶を重そうに運んでいる私を見て、それを手伝ってくれたり、渓流で洗濯をしていると、女の子が「丘ちゃんは洗濯ができないでしょう」とからかいながら、代わりに洗濯をしてくれたり……。
先ごろの帰省で、私は久しぶりに母校を訪ねた。しかし石段やグラウンド、囲屋式のキャンパスは、すっかりなくなってしまった。その代わりに新築された校舎や実験用ビル、図書館などが建っていた。建物は、湯錫林さんらインドネシアの華僑がこの20年あまりにわたって寄付した資金で建てられたという。近代的な建物や母校の発展を目の当たりにし、喜びでいっぱいになった。と同時に、思い出をかみしめたかった私だが、かえって道に迷うばかりであった。
(2004年8月号より)
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【客家】(はっか)。4世紀初め(西晋末期)と9世紀末(唐代末期)、13世紀初め(南宋末期)のころ、黄河流域から南方へ移り住んだ漢民族の一派。共通の客家語を話し、独特の客家文化と生活習慣をもつ。現在およそ6000万人の客家人がいるといわれ、広東、福建、江西、広西、湖南、四川、台湾などの省・自治区に分布している。 |
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