【画家たちの20 世紀(1)】


欧米に学んだ初の画学生 李鉄夫(1869〜1952年)

                      文・水天中


『未完の老人像』 47.2×61.5cm
油彩 1918年 広州美術学院蔵
写真提供・中国油画研究学会

 広東鶴山の人。もとの名は李玉田。幼少期から絵を好み、16歳で親類の援助を得てイギリス、アメリカで美術を学んだ。彼は海外で油絵を学んだ中国最初の画家である。

 彼が滞在していた当時のイギリスでは、華僑の間で腐敗を極めた清政府に反対する革命の気運が強まっていた。李鉄夫は、孫文と何度も会い、その思想の影響を受け、革命運動に積極的に参加するようになった。また画家としてもイギリス、アメリカ両国で熱心に学び、名誉ある称号をいくつも獲得した。

 クリント美術学校では試験の成績が飛び抜けていたため特に奨励を受け、アメリカではニューヨーク学生芸術同盟、美術研究会への参加が認められる。後には助教授の称号を受けた。

 彼の作品のなかでは、特に肖像画は何度も各種の賞を受賞し、当時の美術界で高い評価を得た。当時欧米に滞在していた多くのアジア人のなかで、彼ほど数々の賞を受けた者はほかにいなかった。また彼は革命の志士として、同盟会ニューヨーク分会の指導的メンバーの一人となって活躍し、百点余りの作品を売った代金、絵画を通して得た各種賞金、メダルなどを惜しむことなく同盟会の活動資金に提供した。そして辛亥革命が成功した後は、また芸術の世界に戻り、政治からまったく離れた一人の画家になった。現存する多くの作品は、この時期アメリカで創作されたものだ。

 1930年秋、中国に帰国。その後の彼は、権力者たちと一線を画し進んで交わろうとはしなかった。欧米での生活が長くとも李鉄夫の人生への態度、内面の感情世界は、依然として中国の伝統的な文人のものだった。

 李鉄夫はアメリカ留学時代、二人の有名な画家に師事した。一人は正統派肖像画家ジョン・S・サージェント(1856〜1925年)。もう一人は1875年、ニューヨークに開設されたアート・スチューデンツ・リーグの絵画教室で多くの画家を育てたことでも知られるウィリアム・M・チェース(1849〜1916年)である。重厚な色使い、丁重なタッチに、彼らの影響が見られる。『未完の老人像』『音楽家』(1918年)、『金髪の娘』などの作品には、技術面の習熟だけでなく、対象人物の人格を伝える見事な表現力が感じられる。帰国後は『静物―盆の上のうり』(1938年)、『水辺の樹林』(1946年)を発表、このころは技術的な習熟はさらに深まり、自由闊達な表現を獲得していく。

 油絵以外に、李鉄夫は、すぐれた水彩画家でもある。アメリカでは自然の風景を題材にし、繊細な色彩感覚を存分に発揮した。帰国後は、ロマンティックな南部の風景を題材にし、水彩画の創作点数は、油絵を上回った。また一時期水墨画を描いたこともある。作品からは画家の書道に関する深い教養がにじみ出ると同時に、欧米の水彩画の特色が感じられる。

 帰国後の李鉄夫は清貧そのものの生活を送った。アトリエも、絵の具もなく、中国での数点の作品はみな、他人の絵の具とアトリエを借りて創作されたものだ。

 三〇年代、香港の茶館では、毎朝二時間ほど、一人で必ずやってきてはただ座ってお茶を飲む孤独な姿が見かけられたという。1942年、徐悲*は中国油絵界の先達の境遇を「初期に見事な肖像画を描いた彼が、この二十年来、茶湯を啜って日を過ごし、何も描かないとは」と嘆いた。四〇年代になると李鉄夫はますます貧窮を極め、香港九竜の山上の小屋に暮らした。一間の小屋は四方を囲む壁も揃わないような粗末なもので、ただ一つの財産は、床下に巻いてしまってある数十枚の作品のみ。それだけが昔の才能と栄光を証明するものだった。

 新中国成立後は広州に戻り、華南文学芸術界連合会副主席に選ばれ、華南文芸学院教授となった。だかわずか三年後、1952年、広州で生涯を終える。財産のすべてであった油絵と水彩画は国家に寄贈され、それらの作品は現在、広州美術学院の収蔵となっている。(2001年1月号より)