【画家たちの20 世紀(2)】


風景画に独自の世界を確立 顔文梁(1919〜)

                       文・趙 力


『ベネチア サン・マルコ大聖堂』
16×24cm  油彩 カンヴァス
1930年 個人蔵
写真提供・中国油画研究学会

 顔文梁は、創作と美術教育の両面において成し遂げた仕事の偉大さから、20世紀初期の中国美術界における同世代の中心的存在とされている。その作品は、よく「光と色の交響楽」という言葉で例えられる。

 上海の顔家が所蔵する代表作『ベネチア サン・マルコ大聖堂』は、ヨーロッパ留学中に描かれたもので、芸術家としての見事な成熟ぶりを感じさせる。1893年生まれの顔文梁は四十歳を目前にしてこの作品を仕上げた。1904年、蘇州の誠正学堂で中国伝統画を学び始めて以来、絵画に取り組んで約25年の歳月が流れていた。

 顔文梁の父、顔元は上海派の大家、任伯年(1840〜1896年)の愛弟子であり、絵画において息子に与えた影響は少なくなかった。けれど、西洋の事物が日増しに中国に流入してきた時代の影響と、彼の学んだ学堂の新教育のあり方によって、顔文梁は中国伝統画の枠に締めつけられることはなかった。デッサンに対する興味が日増しに高まり、1909年には上海商務印書館で見習いを始めた。その後1911年には、独学で油彩と絵の具の研究を始め、伝統の世界から現代を生きる芸術家への転身の道をたどり始めた。後には蘇州美術学校を開設、社会的名声は高まる一方だった。

 けれど熱烈な愛国者であった顔文梁は、名声に甘んじることなく、むしろ中国の衰退と文化面の停滞を深く憂えていた。そして自ら提唱した「芸術の進歩により社会の改善をはかる」精神に従い、遠路はるばる芸術の都パリへの留学を果たし、美術アカデミーに三年間在籍した。そしてパリでは対象を明確にとらえる描写力を養うとともに、さまざまな芸術運動の洗礼を受ける。こうした刺激のなか、芸術家としての個性を真摯に追求し続けた。『ベネチア サン・マルコ大聖堂』には、彼の芸術の理想の境地と、そこに至るまでの長い努力の軌跡が感じられる。

 作品は、1930年、三週間にわたるイタリア旅行中に油彩で写生された。自然描写へのこだわりは、フランス写実主義を代表するクールベの風格を受け継いだものだが、そこには彼自身の特色として、対象に迫るデッサン力と豊かな色彩感覚との美しい調和が見られる。ベネチアという土地は、油彩の対象にするにふさわしい、光と色に満ちた場所だ。だからこそ、画家自身がその場所に立って受けたであろう感激と興奮が、光と色に対する自由闊達な表現を通して、私達にも伝わってくる。ゆえにこの作品は、フランス印象派の系列に属すものであり、ピサロや、シスレー、モネの作品を連想させる。

 『ベネチア サン・マルコ大聖堂』の画面では、聖堂の建物、道ゆく人間、ハトまでも、一切の輪郭とディテールが光のなかに溶けこんでいるようだ。正確なタッチは、画面に重みを添えるだけでなく、写生に特有の生き生きとした臨場感を生み出している。微妙に変化する色彩によって伝えられる画面に溢れる光は、まさに「光と色の交響楽」となって、私達の心をとらえる。

 この作品は、クールベらの写実主義と、モネ、ピサロ、シスレーらの印象主義のどちらにもつかないものとしてとらえられるべきではなく、写実主義と出会った顔文梁がその刺激を受けるなかで自ら思考した結果として生まれたものと解釈すべきだろう。この作品ののち、顔文梁は、自然描写に関してずっと一貫した創作方法をとり続け、彼独自の世界を築きあげていった。(2001年2月号より)