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『人物』64×49cm
油彩1927〜1929年
パン薫チン美術館蔵
写真提供・中国油画研究学会
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パン薫チンは字を虞鉉、筆名は鼓軒と称した。1906年6月20日、江蘇省常熟県に生まれ、幼少時から絵を好み、十歳で花鳥画を学び始める。青年時代は上海 南大学で医学を修めたが、のち美術を専攻した。1925年、フランス、パリに留学、絵画を学び西洋の近代美術の影響を受ける。パリでは、工芸美術のジャンルにも挑み、服飾デザインの仕事にかかわった。帰国前、彼には二つの目標が芽生えていた。一つは、西洋画の創作を続けること、もう一つは志を同じくする人々と共に工芸美術学校を始めることだった。
1930年、パン薫チンは上海に戻り、自ら資金を工面し工芸美術社を創設する。ところが上海国貿公司の援助を得て開いた初の工商業美術展覧会で、出品作のガラス製チェスト百点すべてが何者かによって故意に破壊されるという事件が起きた。また事件ののち、まもなく開いた前衛的な画家を集めた展覧会は、開会後、当局によって閉鎖された。のち友人とともに美術団体「決瀾社」を結成、新美術運動を展開した。彼らのスローガンは、「我らの躍動する精神を生命を込めて表現する」というものだった。1934年、決瀾社の第三回展覧会にパン薫チンは『大地の子』を出品、解放前の農村の悲惨な現状を描いた。続けて出品された『屋根』『人生の謎』などの作品にもみられるように、当時の彼の作品には「抑圧」というテーマが繰り返し描かれている。彼は自画像さえも、狂気と苦悩の象徴として描いていた。こうした作品群は当局の不快感をあおり、ついには指名手配をうけ、身一つの逃走を余儀なくされた。
1936年、パン薫チンは上海を離れ、北平(北京の旧名)の芸術専科学校でグラフィックデザインの担当教授となる。1937年、ツォ溝橋事件が勃発し、日本軍が北平を占領したため芸術専科学校は南京に移転、パン薫チンは、学生を率いて抗日運動を行った。1938年には昆明に行き、中央博物館設立事務所に参加した。その後四川省の芸術専科学校の教授兼美術部主任となる。同時期、昆明郊外の粗末な庵を拠点として、中国の装飾芸術史の研究に没頭した。資料収集のため生命の危険をおかして西南部の山間地帯の調査を行い、少数民族の工芸品を集めた。
1940年、西南部の少数民族の生活と労働を描いた、二十点のシリーズ『貴州山民図』を完成。作品はリアルな人物像と装飾に使われる抽象的な図柄をあわせて画面を構成した画期的な手法のものだった。
その後長期間にわたってパン薫チンは、中国の工芸美術教育に力を尽くし、工芸美術を軽視する傾向のある中国美術界の伝統に大胆に挑戦し続けた。1956年、中央工芸美術学院成立後は、副院長に就任。1958年からは『中国歴代装飾画研究』の執筆に没頭した。同時に学院では装飾画についての連続講座を行った。執筆と講座を続けるなか、1963年、初稿を完成。しかし十年にわたる「文化大革命」の最中には、執筆を続けることができず、再び油絵を描き始めた。作品は描かれるごとに成熟の度合いを深めていき、晩年の八〇年代の作品を三〇年代以来の作品と比べると、より純粋、素朴な味わいとなっている。1985年、北京で病のため死去。六十年にわたる工芸美術運動、教育事業への尽力は、歴史の動乱のなかで鍛えあげられた人格の魅力とともに、中国の工芸美術界の新世代に大きな影響を与えている。
(2001年3月号より)
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