【画家たちの20 世紀(5)】


恵まれない人々への愛と情熱 司徒喬

                      文・趙 力


『鞭を放せ』
125×178cm 油彩
1940年 中国美術館蔵
写真提供・中国油画研究学会

 一九〇二年、司徒喬は、広東省開平市の農村の貧困家庭に生まれた。十二歳の時、父が広州嶺南大学付属小学校の職員となり、学校関係者の子弟として、学費免除の措置を受け、アメリカ教会学校へ進むことができた。校長は、彼の父方のいとこで、絵画を趣味とし、特に水彩画を好んでいた。彼は、絵の具箱やイーゼルを運ぶ手伝いをしているうち、次第に絵画に目覚めるようになった。十八歳で、嶺南文学院に入学。一九二四年には、北京、燕京大学神学院に学費免除の待遇で進学することができた。だが神学の授業に次第に反感を覚えるようになった彼は、授業などそっちのけで、スケッチブックを抱え、古廟や山、貧民窟、貧しい人々、乞食……など、およそ目に入るものを一日中描くようになった。一九二六年六月、彼は十数枚の作品を中山公園内に展示し、初の個展を開いた。うち二枚を魯迅が購入、コレクションとして納められることになった。同年、神学院を卒業後は、牧師の道を拒否し、貧民窟に暮らし、サツマイモをかじって餓えをしのぎ、自らを「サツマイモ絵描き」と称していた。

 一九二六年、作品『被圧迫者』など十点の作品が、万国美術博覧会に入選。一九二八年には、二度目の個展が芸術関係者から注目され、高名な画家、徐悲鴻からは「司徒喬の色彩感覚は、当代最もすぐれ、鋭敏である」と評された。一九三一年、嶺南大学に赴き、西洋画の教師となった。一九三六年、上海に移り、魯迅の逝去に際しては、遺影を描いた。一九三六年、南京に移ったが、翌年には、日本の侵略戦争によって、彼の友人の家に保存されていた、十二年分の作品、日記、書物などがすべて灰燼に帰した。一九三八年には、ミャンマーなど東南アジアの各地で療養生活を送るとともに各地で個展を開いた。一九四二年、帰国後は、西北部へ赴き、五省にわたる災害地域を訪れ、写生した作品を完成させ、個展を開き、人々に感動を与えた。

 一九五〇年、アメリカから帰国後は、革命博物館の開館準備に従事し、革命歴史画、肖像画、挿し絵などの創作ののち、一九五八年二月十六日、五十六歳で世を去った。

 彼の創作は生涯、最下層の人々をテーマとしていた。絵筆を以って、社会の不正と貧しい人々への共感を訴えた彼は「人民芸術家」と称された。彼は正規の美術教育を受けたことがない油彩画家だった。生活上の苦難は、彼の創作への情熱を摩滅させることなく、かえって勇気を奮い立たせ、霊感を与えた。深刻さをたたえた作品は人々の心を動かすに値するものだった。『鞭を放せ』もまさにそのような傑作の一つである。

 作品は四〇年代、抗日戦争の苦難の最中に描かれた。当時街にあふれる難民を勇気づけるために数作品の芝居がシリーズ上演され、『鞭を放せ』もその一つだった。芝居は、路上で流しをしながら東北地方から河北地方を流浪する親子が主人公だった。曲の途中で、娘は飢えのあまり、倒れてしまう。父親はカッとなって娘を鞭で殴ってしまい、後悔する。後から慰める父親に向かって娘は言う。「お父さん、いいのよ。お父さんが殴ったのではなくて、鬼子(グイズ)が殴ったんだから」。鬼子とは侵略者の日本人を指した言葉で、このセリフは彼らの引き起こした罪悪を訴えるものだった。一九四〇年、芝居はマレーシアでも上演され、病をおして見にいった司徒喬は激しく感動し、同名の絵が生まれた。作品には父子の情景を通して、少女の愛と憎しみ、画家の祖国への燃えたぎる思いが表現されている。(2001年5月号より)