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『香港の埠頭』
72×90.5cm 1942年
油彩中国美術館蔵
写真提供・中国油画研究学会
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陳抱一は、1893年、上海に生まれた。父は招商局の要職にあり、恵まれた家庭環境に育つ。少年時代から芸術を愛し、理解ある父に支えられて、美術関係の書籍を買い集め、没頭する日々を送った。そして恵まれた条件のもと、比較的早くから、西洋画に取り組んだ。
初期に私淑したのは、中国における西洋画の黎明期、重要な役割を果たした張聿光(1871〜1968)、もう一人は、中国初の私立美術学校の創設者、周湘(1871〜1933)。二人の師とともに西洋画の勉強を続けた。
1913年、日本に渡り、白馬会所属の葵橋西洋画研究所に入る。1914年から翌年まで病のために一時帰国し、上海図画美術院で西洋画の教師となる。また西洋画家のグループ「東方画会」を組織した。
西洋画を教え、また自らの勉強を続けるなかで、従来のサロン的な学習方法に大胆に異議を唱え、写生や石版画を始めた。1916年、再度、日本に渡り、藤島武二が主催する川端画学校洋画部に入り、のち東京美術学校で西洋画を学んだ。この時期、日本の現代美術思潮の影響を受け、在日中国人留学生を組織し、中華美術学会を創立。また日本女性、飯塚鶴(結婚後は陳キカ美と改名)と愛しあうようになった。
1921年、新妻を連れて、帰国。上海中心部、江湾区の自宅「陳家ガーデン」にアトリエを建てた。新婚夫婦はともに画業に励み、彼の一生のなかで最も輝かしく活発な時期を送った。
陳抱一は善良で、まるで書生のように見え、人と会えば誰にでも熱心に芸術論を語った。西洋画を中国に普及させるため、彼は惜しむことなく自ら資金を投じ、啓蒙活動を行った。
1925年、蔡元培の支持を受け、中華芸術大学の創設に参加、責任者となった。翌年、『油彩法の基礎』を出版、これは中国初の、油彩の技法を系統的に紹介した本となり、多くの美術を学ぶ中国青年と油彩との距離感を縮め、彼らに勇気を与える画期的なものとなった。その後も、『静物画研究』『人体画研究』などの本を著わし、油彩芸術理論の指導的存在となった。
1929年、陳抱一は日本の青年画家、秋田義一と上海の江湾区に晞陽美術学院を開き、そのもとには絵画に情熱を燃やす青年が多く集った。
1932年1月28日、日本軍が上海を占領、アトリエと学院が日本軍による砲火の犠牲となった。父の遺産に頼って生活を続け
トいた彼は、一夜にして路頭をさまよう身となり、彼の芸術的事業、画壇への影響力はすべて失われた。
日本への留学経験があり、日本人の妻と多くの友人を持つ彼にとって、アトリエと作品がこのような形で失われた心の傷は、どれほどのものだったろう。
親戚を頼って、粗末な借家住まいを始めた彼は、その後、悲惨な13年を送った。「陳家ガーデン」のころ、花々を題材にした写実主義的な作品を描いていた彼は、やがて流浪の民の現実生活を主に描くようになった。晩年の彼の絵は、暗く重く、当時の彼の心情をみてとることができる。
1945年7月27日、全国の人民が日本軍による占領からの解放の喜びにひたるなかで、病を得た彼は、52歳で世を去った。少年時代の同級生で、有名画家の劉海粟は、「芸術に対する情熱を終生失わず、絵を描き、人を育て、地位や名誉には、露ほども執着がなかった」と彼を偲んだ。
(2001年7月号より)
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