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『復興中路の雪景色』
油彩 46cm×56cm 1957年
劉海粟記念館所蔵(上海)
写真提供・中国油画学会
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1911年11月23日、中国近代における初の美術専門学校、上海図画美術院が誕生した。これはのちの上海美術専門学校の前身になるものだった。創設者は当時わずか17歳だった劉海粟と彼の絵画を通じた友人だった。
劉海粟は、1896年3月16日江蘇省常州に生まれた。もとの名は、劉磐、字を季芳といった。6歳で私塾に入り、四書五経を学び、白描の手法で花鳥画を描いていた。1909年、家を離れ、絵画を学ぶために上海に向かった。その2年後には学校を開設し、蘇軾の代表作「前赤壁の賦」の「渺たる滄海の一粟」にちなみ、劉海粟と名を改めた。
1914年、劉海粟が中国で初めてモデルを起用して絵を描くことを提唱した時には、社会の激しい反応を引き起こした。17年、上海美術専門学校が開いた展覧会で、人体のデッサンが出展され、主催者の彼は「芸術の裏切り者」と世間からののしられた。翌年には、スケッチ旅行を提唱し、学生を連れて杭州へ出かけた。のち、雑誌『美術』を創刊し、西洋画の技法、色彩学、透視学などを研究し、西洋の新しい美術思潮を紹介した。
1919年、東京に赴き、日本の美術と教育を視察。また日本帝国美術院初の展覧会に参加した。22年には北京で「劉海粟・油彩、水彩画展」を開催。蔡元培は、その絵画への後期印象派の影響を見出し、賞賛した。翌年には教育部の招きに応じ、新学制の課程つくりに参加し、芸術教育を小中学校の必須科目とすることに成功し、みずからも美術の教科書の編集にあたった。
1926年4月、軍閥の孫伝芳は彼に手紙を出し、モデルを使うことをやめるよう言ってきた。劉海粟が返事の手紙を書いて反論したため孫は怒り、美術専門学校を閉鎖し、彼を指名手配にした。
1927年、劉海粟は日本に向かい、朝日新聞社で個展を開催した。多くの作品が日本の宮内庁に収蔵され、天皇陛下は彼に銀杯を賜った。東京では「石濤と後期印象派」のテーマで、学術報告を行い、それは日本語に翻訳され、雑誌に掲載された。
画家の橋本関雪は、彼のことを「東方芸術世界の獅子」と呼んだ。29年からヨーロッパへの旅にでかけ、フランス、イタリア、スイス、オランダ、デンマーク、ノルウェー、エジプトなどを歴訪。ピカソ、マチスなどの大家とも知り合い、ルーブル美術館では世界の名画を模写した。
1940年、ジャカルタで「中国現代名画義援展」を主催した。その後、また東南アジア各地で巡回展を開催し、絵を売って得た収入は、すべて国内に送り抗戦を支援した。43年、上海に戻り、日本のかいらい政権からの様々な招聘を断り、中国古代の書画研究に没頭した。47年からは上海、台北などで個展を開いた。
1952年、上海美術専門学校、蘇州美術学校、山東大学芸術学部が統合され、無錫に華東芸術専門学校が開校し、劉海粟が校長となった。57年、上海美術館で「劉海粟・中国画、油彩展」が開かれたが、同年、「右派分子」とされ批判を受けた。62年には右派のレッテルをはずされ、油彩と水彩の創作に励んだ。「文化大革命」では迫害され、二十数回もの家宅捜索が行われた。
1979年6月、北京の中国美術館は「劉海粟絵画展」を開き、1922年以来の油彩、中国画、書など作品184点が展示された。10月、南京芸術学院院長となる。80年代以来は、すでに高齢に入ったが、創作面ではピークを迎え、幾度も黄山に登り、大量の中国画、書、油彩などの作品を創作した。
1994年、一世代を代表する大師、劉海粟は逝去した。
その早期の作品には、印象派の影響が強い。彼のゴッホに対する評価に、両者の芸術と精神上の暗黙の了解を感じることができる。青年期の劉海粟は、画風の上でゴッホに近づこうと努力していただけでなく、自分の芸術上の目標としていた。50年代の作品『復興中路の雪景色』にも、そのような画風が引き継がれているのを見ることができる。(2001年10月号より)
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