【画家たちの20 世紀(11)】



人道主義を貫き通した作品 林風眠

                       文・魯忠民


77×78センチ
油彩 1989年
上海中国画院蔵
写真提供・中国油画研究学会

 1900年12月22日、林風眠は広東省梅県の山奥の農家に生まれた。祖父と父親は墓石を彫る石職人だったが、林風眠は六歳で私塾に入り絵を学び始めた。祖父から受けた影響について、彼はこう回想している。私の手と絵筆は、ちょうど祖父の手とノミと同じで、一時も休むことはない。違うのは、祖父は重くて荒い石に一生を費やし、私は軽くて滑らかな紙に一生を費やしたことだ。

 1918年、中学を卒業して上海に出た林風眠は、「留仏半工半読試験」に合格し、学校に通いながらペンキ文字職人として働ける立場でフランス留学のチャンスをつかんだ。19年、親戚の援助を得てフランスのジジョン国立美術学院でデッサンを学び、その後学院長の賞賛と推薦を受けパリ国立美術学院に転入、デッサンと油絵を学んだ。新思潮絵画勃興の中心・パリで、限りない追求心を持って様々な芸術流派の手法を吸収した。特に印象派の巨匠たちから受けた影響が大きかった。フランス、ドイツで心血を注いで中国国内では触れられない中国文化遺産を研究し、「中国・西洋融合」の芸術思想を持つようになり、まったく新しい絵画様式を創造する道を歩み始めた。

 1925年、林風眠は蔡元培の推薦で帰国、当時の中国芸術最高学府である国立北京芸術専門学校の校長兼教授に任命された。翌年、校内で帰国後初の個展を開き、油絵および中国画を百点以上展示、合わせて「東西芸術の前途」という一文を発表した。教育課程では、数々の不理解と批判に屈せず人体モデルを導入、当時はまだ民間画家だった斉白石を招いて教鞭をとらせた。27年、「全国芸術界に送る書」を発表、芸術運動の先頭に立ち、社会美術教育を促進、芸術による中国人の精神救済を進めた。彼の提案で、28年には杭州国立芸術院を設立、自身が初代院長兼教授となった。同年、上海で個人展覧会を開催したほか、芸術院教師を中心に、新時代の芸術創造を目的とする全国的な組織「芸術運動社」を発足させ、芸術には個性、民族性、時代性が欠かせないと主張した。29年、「アポロ社」を設立し、雑誌の出版、西湖博覧会芸術宮の立ち上げ、上海での第一回全国美術展覧会の開催を準備・組織した。展覧会出品作には、西洋現代派の影響を受けた探索性高い作品が多かったため、徐悲鴻らとの論争に発展し、50年代以降、形式主義の十字架を背負って排斥される伏線となった。この頃の林風眠は、現実を反映した大油絵『人道』『苦痛』など多くの作品を創作、人道主義精神に満ち溢れていた。

 1931年、芸術教育視察のため日本を訪問、東京で「杭州国立芸術院教授作品展」を開催し、『中国絵画新論』『1935年の世界芸術』などの書籍を出版した。38年、北平(今の北京)と杭州の二つの国立芸術院が合併し、林風眠は主任委員に任命された。その後、学内騒動をきっかけに学校を離れ上海に戻り、しばらく後には重慶で隠遁生活を送るようになり、絵画創作に没頭した。この孤独でやるせなく、苦しい貧困生活を経て、「林風眠風格」が誕生した。

 1945年、重慶国立芸術専門学校教授として招かれ、49年には、再び北京の国立芸術専門学校の教授となった。しかし51年になると現代主義芸術が制限されるようになり辞職、上海に移住した。54年、中国美術家協会上海分会副主席となったが、文化大革命中はひどい迫害を受け、5年近く監獄生活を送った。77年に香港移住し、個展の開催、『林風眠画集』の出版など、精力的な活動を行い、79年にも上海とパリで個展を開催した。80年代は、晩年の創作の最高潮を迎え、テーマ性の高い絵画から半世紀も離れていた彼が、改めて人間の運命をテーマとして選んだ。そして92年8月17日、中国画壇の一時代を築いた大師・林風眠は香港で病死、享年92歳だった。 (2001年11月号より)