【画家たちの20 世紀(20)】


心に響く音楽のように ・建俊(1931〜)

                       魯忠民


『高原の歌』
198×172センチ
油彩 1979年
中国美術館蔵
写真提供・中国油画学会

 1979年、建国30周年に際して、中国美術館は、全国規模の美術展覧会を開催し、画家・・建俊の作品『高原の歌』が、評論家から最高の評価を得た。

 『高原の歌』は、交響曲のような絵で、チベット族の若い女性が、ヤクの背に乗って、声を張り上げて高らかに歌っている様子を描いている。落日が彼女の影を際立たせ、黄金の輝きを添えている。また、遠くの雪山と近くの野花は、夕焼けによって鮮やかな赤に染まっている。

 ・建俊は、転換の時代の精神成長過程を敏感にとらえ、動乱と文化荒廃の時代にも、画家たちの「芸術的触角」が決して鈍化しなかったことを証明し、再生の時代の中で、改めて自分の個性を表現した。

 彼は1931年1月21日、瀋陽の満州族の家庭に生まれた。38年に両親に連れられて北平(現在の北京)に移住し、父親の紹介で雪蘆画社に入り、伝統的な中国画を学んだ。17歳で国立北平芸術専科学校の西洋画科に入学、のちに中央美術学院絵画学部に転学した。

 53年に卒業し、引き続き同校大学院で彩墨画(彩色をほどこす水墨画)を研究した。55〜57年には、画家・マクシーモフ(旧ソ連)が指導した文化部(部は省庁に相当)主催の洋画訓練班で学び、第六回世界青年交歓祭りの国際美術展覧会に出品した卒業作品『起業』で、銅賞を受賞した。57年には、中央美術学院の油絵教師となった。そして59年、のちに「新中国の油絵の最高傑作」と呼ばれるようになる、革命歴史画『狼牙山の五壮士』を創作した。

 「文化大革命」が始まると、画家と教師としてのすべての仕事を中止せざるを得なくなり、その期間には、政治をテーマとした絵画の制作を命じられた。そして80年、中国美術学院の油絵学部はアトリエを復活させ、彼を第三アトリエの主任に任命した。85年、・建俊は中国美術家協会の油絵委員会主任に就任。10年後には、中国油絵学会が設立され、主席に選ばれた。有名画家、教授、中国油絵界の実力者として、一連の全国的、国際的な油絵展覧会に参与し、中心的役割を果たしてきた。

 彼は背が高くはつらつとしていて、真っ白な白髪をたくわえ、言葉や振る舞いは落ち着いている。また人に対して、率直で明朗、寛容で懐が深いという印象を与える。芸術創作上でも、包容の大切さを主張し、若者の「新概念」を支持し、芸術形式の革新を賞賛している。実際、彼の多くの作品は、一貫して生命の躍動と力強さをほめたたえ、はっきりとした色づかいで、ロマン的な表現力と想像性に満ちている。また、情感を強調した叙情的な表現が、如実の描写を超えている。この種の表現主義の傾向について、彼自身、このように語ったことがある。

 「私は自作で、音楽のように人の心に響くメロディーをかなで、人の感情を揺さぶりたい。震える筆で、情感にあふれたリズムと、さらさらと流れるような音声を、永遠にキャンバスの中に固定したい」(2002年8月号より)