民間の文化遺産を訪ねて  
 
 
 

天津・楊柳青 北方年画の代表格
精緻な技巧と鮮やかな色彩で描く庶民の夢
 
顔の彩色――年画製作の最大のポイント。その店のベテラン絵師が最後に筆を入れるところだ
 
 
 
 中国では、天津の楊柳青という地名がよく知られている。中国民間芸術の一つ、楊柳青木版年画が発達してきた土地柄だからである。

伝統年画の「金玉満堂」(清代)

 中国では、天津の楊柳青という地名がよく知られている。中国民間芸術の一つ、楊柳青木版年画が発達してきた土地柄だからである。

 年画は、その名のとおり新年(春節=旧正月)のときに貼る絵だ。その昔、年末ともなると各家が母屋や寝室、窓、門、竃の間などに新しい年画を貼った。正月ムードを盛り上げる意味もあるし、幸福を祈り、厄を除ける意味もある。

 楊柳青鎮(町)は天津市の西部に位置し、北には子牙河、大清河が、南には大運河が流れている。明・清時代に運河が開通し、水運が盛んになったため、町には商店が軒をつらねた。秋になると南からの食糧運輸船がここに集まり、市がにぎわい、それは北方の「小蘇杭」(ミニ蘇州・杭州)と呼ばれるほどであった。

収集された大型年画「天地全神図」の版木

 楊柳青木版年画は明末(17世紀中期)にはじまり、清代中期(18〜19世紀)には、町内をはじめ周辺三十カ村あまりに約百軒の年画工房ができたという。年画職人は3000人を上まわり、「家々が彩色をよくし、戸々が絵画に長じる」という勢いだった。楊柳青年画の内容は、歴史物語、神話・伝奇、戯曲人物、世俗風情、山水花鳥などと幅広い。製作のプロセスは、輪郭取り、刻版(版木に輪郭を彫ること)、印刷、彩色、表装の五つにわかれ、前半のプロセスは各地の木版年画の作り方とほぼ同じである。いずれも下絵にもとづき刻版し、重ね刷りをするのだが、異なるところは手作業による彩色が何回も行われ、版画の刀痕と絵画の筆跡、色彩をたくみに融合させていることだ。重ね刷りをした墨線や印刷された半製品は、丹念に描いて軸をつけ、表装をよくすれば、いつまでも色あせることなく文人墨客や富豪に親しまれる逸品となった。それは「貢尖」(注1)として宮廷に収蔵される手の込んだものになったが、一方で、毎年庶民が貼りかえることのできる粗雑な安いものにもなった。

 (注1)楊柳青年画の一種。長さ120センチ、幅63センチ。「貢」は貢ぎ物、「尖」は上等品を意味する。かつて宮廷からの使いが年画を選びにきたとき、年画工房が初版のなかでも選りすぐりの新品を呈したことからこう呼ばれる。

 近代になると、西洋の石版画(リトグラフ)など先進的な印刷技術が導入された。様式が新しく、色彩の美しい石版年画や「カレンダー年画」が盛んに作られ、伝統的な木版年画にそうとうなダメージを与えた。楊柳青の木版年画もしだいに衰えていった。しかし楊柳青年画は、中国の豊かで貴重な民間の文化遺産である。関係部門はそれを収集・整理して、ユネスコの無形文化遺産(舞踊、工芸技術、口承などを含む)への登録申請を行っている。

輪郭取り――構想、下書き、修正、脱稿の各工程がある。おもに墨を使って線描をすることを指す
 
刻版――拓本と版木の彫刻がある。墨線を綿連紙(画仙紙の一種で、文字や図画を彫りつける場合に使う)により板の上にコピーする。梨木の板が最適とされる。墨線をもとに、さまざまな彫刻刀や彫刻法で版木を作る
 
印刷――単色印刷と重ね刷り印刷がある。重ね刷りの場合は、順番に色を印刷していく

 
彩色――人工的に彩色をほどこすこと。楊柳青年画のもっとも複雑で、細かな作業だ

 
表装――表装、掛け軸、画帖などの形式がある。昔の年画は画びょうで壁に貼られたが、いまはほとんど表装されて長く飾るか、贈答用となっている

玉成号画荘

石氏邸宅にある楊柳青の歴史を伝える泥人形。現代人はそれを通じて、いにしえの楊柳青年画店を想像するのみだ

 現在の楊柳青は、古い民家が現代的な広場やビル群に変わり、食糧運輸でにぎわっていた大運河のほとりには、新しい公園が広がっている。その河沿いのビル群に「玉成号画荘」という老舗の旗がはためいている。

 店主の霍慶有さん(52歳)は、2003年にこのビルに引っ越した。年画家業の6代目であり、妻と息子夫婦、中学生の娘の5人家族だ。以前の家は、運河のほとりに建てられた玄関が二つもある「四合院」(中国北方の伝統的住居)であったが、そこはいまや芝生の広がる緑地となった。現在住んでいるのは3階構造のロフト式住宅で、総面積は約200平方メートル。一階は工房で、霍さんと妻、息子、二人の弟子が仕事をするところ、2、3階と廊下はギャラリーであり、作品がズラリと展示されている。なかには霍さん自身が製作したものもあれば、民間から集めた貴重品もあるという。製作年代は清代から現代におよび、それは「楊柳青年画史」といえるほどだ。

霍慶有さんの家。一階は仕事場で、典型的な家内工房である

 1949年の新中国成立後、楊柳青年画は一時的によみがえったことがある。「玉成号画荘」は霍さんの父・霍玉堂さんが50年代に創業したが、58年になると霍玉堂さんは数人の職人とともに楊柳青画社を創設(60年に天津市内に移転し、国営出版社になる)。当時の周恩来総理は同社を視察して、その仕事ぶりを高く評価したという。「文革」時代になると、年画は「四旧」(古い思想・文化・風俗・習慣)であるとされ、千を数える版木がメチャクチャにたたき壊された。以来、楊柳青年画は地元でも消滅寸前となった。ここまで話すと、霍さんは「うしろめたい気持ちです」と打ちあけた。それは「文革」中に政治的な圧力を受けて、所蔵する版木の多くを自ら斧でたたき割ったためである。

現代年画の「雛鷹」、鄭克祥氏・作(1984年)

 改革・開放後の1980年、霍さんは父の教えにしたがい、兄姉とともに再び年画の製作をはじめた。その2年後、父の霍玉堂さんは、いまわの際にとぎれとぎれにこう言った。「わが楊柳青に年画がなくば、楊柳青とは言えぬ」と。霍さんはその言葉の意味をさとり、年画の救急保護にさらに打ち込むようになった。まず、勉強することからはじめ、「画門子」(注2)の前に20年あまりも立ちつづけ、輪郭取り、刻版、印刷、彩色、表装という一連の技能を身につけた。

 (注2) 仕事の効率を高めるために作られた年画専用の動く版木。形が門に似ているので、そう名づけられた。

 20年にわたって楊柳青の村々を訪ね、百種以上もの貴重なサンプルや古い作品を収集・整理した。「この伝承がとだえたら、祖先に顔向けできません。楊柳青年画は代々伝わる国宝なのですから」と霍さんは語る。

「甕魚」を描くただ一人

 
ベテラン職人の王学勤さんと、作品の「甕魚」年画   甕の上に貼られた甕魚年画。ときには農村で見かけられる

 かつて楊柳青年画には「甕魚」という年画があった。台所に置かれた水甕の上部の壁に貼るもので、「魚」の発音と同じなので「余」(有り余る、豊かになる)という縁起のいい意味があるほか、別の活用法があった。楊柳青の人々はかつて運河の濁った水を沈殿させて飲み水として使っていたが、水が澄むと年画の魚が水に映る。そのため、飲み水かどうかがわかるという役目を果たしていたのだ。しかし、町の人たちは早くから水道水を利用したので、水甕も甕魚年画の市もしだいに消えていった。

 ところが天津の宮荘子村には、いまも甕魚を描いている王学勤さんという老人がいる。家を訪ねると、王さんはちょうど収穫したばかりのトウモロコシを屋上で干しているところだった。70歳の王さんは、ガッシリとした体格の明るい人だ。先祖代々年画職人だったので、いまでも十以上もの古い版木を持っている。秋が過ぎて農閑期を迎えると、年画を印刷しはじめる。春節前まで印刷をつづけ、一年間に作った約2000枚の年画を市へ売りに行く。春節に数日休み、5日から翌年の年画を農繁期まで描きつづける。

玉成号画荘は中国の改革・開放以降、楊柳青に再建された最初の年画工房だ

 王さんの年画は、季節感にあふれた粗雑なものがほとんどだ。おもに重ね刷りや太筆による彩色をほどこしている。コストを抑えるために、紙と顔料はいずれも安いものを選ぶのだという。王さんの甕魚年画は一枚わずか二元(1元は約13円)で売るが、手の込んだものなら2、300元以上で売り出す。「以前、この村はどこの家でも年画を作っていましたよ。盛んなときには馬車で年画を市内に運び、市内から紙を運んだものです」と王さんは振り返る。

 現在、村の人々は年画を製作しなくなり、王さんの息子も跡継ぎにはならないという。「じつは甕魚を描くのは、難しいことではありません。肝心なのは、収入が少ないために若者を引き付けられないことです」と王さん。「数年経てば、私も描かなくなるでしょう。市場には甕魚年画がなくなるのです」と王さんは心配している。

「貢尖」の需要

三階のギャラリーで、収集した古い年画の下絵を整理する霍さん。これらの破片は家屋を取り壊したときに発見されたもので、宝のように大事にしている

 じつは甕魚年画が少なくなっただけでなく、粗雑なものはほとんど消滅していった。楊柳青木版年画は、かつての宮廷ご用達の年画「貢尖」に取って代わったといえよう。

 住宅条件が改善されるにつれて、人々は内装に凝りだした。また、民芸ブーム再来のきざしもある。年画を求める愛好者やコレクターが増えているほか、それ自体も家庭の高級装飾品や、祝日用のプレゼントに変わっている。

 楊柳青にわずかに保存されている四合院に「安氏祠堂」と呼ばれる建物があるが、現在はそれが「楊柳青年画館」となっている。中庭が二つあり、外庭に面した部屋で年画作品を展示している。また、小さい内庭に面した西廂(西側の建物)では年画を販売、東廂では木版年画の製作プロセスを展示している。

昔の安氏祠堂が、いまの楊柳青年画館となっている

 三つある母屋は彩色の工房だ。百あまりの「画門子」が一列に並び、数人の若者たちが真剣な表情で彩色をほどこしていた。経営者の張克強さんは地元出身。小さいころから美術が好きで、絵画の基礎ができている。1993年、住居でもあった三間の平屋に年画工房を設けた。年画社で専門絵師をつとめる兄の指導で、伝統年画の下絵を集め、その生産方法を研究・開発したのであった。現在この工房では、年に百種以上の年画を生産、作品は年に4、5000枚になるという。

 王学勤さんと違うのは、伝統を受け継ぎながら、豊かな表現を追究し、より完璧なものを生みだすことだ。張克強さんは言う。

富貴画庄の店主・ケイさんが、年画作品を鑑定していた

 「当初、年画を作るのは、お金をもうけるためでした。しかし作り続けるうちに、その価値は古典の油絵に少しも劣らないと気がついた。年画(製作)は速さと品質を重んじますが、それはそうでないと生存できないからです。同じ版木の墨線であれ、違う人が描くとその価値には天地の差が生じる。私が追究するのは完璧なもので、もっとも効果が上がるように描きます。私が作ったものには木版もあれば、シルクで作った絹版もある。絹版は正統ではないという批判もあるが、それは清潔できれいです。線描の美しさをよりよく表現することができるのです。それに対して木版は、汚れていて裂けやすく、色合いがアンバランスです。作品の鑑賞は全体的な効果や技術を見るものであり、版の材料とは関係ないと考えています」

楊柳青年画の復活

天津市楊柳青年画社の年画専門家・鄭克祥さんは退職後、若者たちに彩色を教えている

 昔の街並みを再現した楊柳青の「倣古文化街」は、まだ完工していないものの、年画店がつぎつぎとオープンしている。文化局の李銘路さんの話によれば、1980年代には霍慶有さんの店しかなかったが、90年代に入ると5、6軒の店ができ、いまでは楊柳青に20あまりの年画工房が復活している。

 「古柳祥」という年画店に入ると、一階は各種年画がところせましと掛けられていて、二階は小さな工房だった。見学もできる。

年画店の店主・李燕成さん

 店主の李燕成さんは、愛想のいい30代の青年だ。李さんの話では、もとは運転手をしていたという。あまり学問はないけれど、遊び心で年画製作をやってみた。まだ2年にも満たないが進歩は速く、いまでは刻版、印刷、彩色、表装の生産プロセスから販売までの一連の作業ができる。ただ、彩色と表装は単元楼(一つの階段を共有する集合住宅)の住宅でやっているので、大きな庭がほしくてならない。「そのほうが楽しく仕事ができるでしょう」という。李さんの経営のコツは、たくさんの友人をつくること。現在は天津市楊柳青年画社OBの絵師たちが手伝ってくれている。いずれも楊柳青年画製作のエキスパートだ。

国内外の顧客が楊柳青年画を再評価している

 倣古文化街に面した「富貴画荘」の店主は、同年画社を2003年に退職したばかりのケイ富貴さんだ。18歳から弟子となり、彩色や印刷の技術を学んだのをはじめ、管理を担当したこともあり、経験がじつに豊かだ。退職後にこの店をオープンし、退職絵師や各地の職人たちによる年画を集めて販売している。「一年ほど前から年画の需要が増えてきたようですね。国内だけでなく、国外にも年画ファンがいるんですよ」とミマさんは言う。

 富貴画荘を訪ねる前日、ミマさんはマレーシアの買い手に3455枚の年画を郵送したばかりだった。こうしてみると、楊柳青年画が評判となっている。一世紀近くもの衰退をへて、伝統の楊柳青年画がよみがえりつつあるようだ。(2005年2月号より)

 

 
 
 

  本社:中国北京西城区車公荘大街3号
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