民間の文化遺産を訪ねて 侯若虹=文 馮進=写真
 
 
 

雲南・剣川県の木彫工芸
職人たちが磨きつづける伝統の技
 
楊寿和さん(手前)は、夫の張月秋さんの影響で、木彫工芸の仕事を学んだ
 
 
 
剣川民家はいずれも木彫装飾の門層。ペー族民家の特徴だ
「木彫の郷」として、広く知られる雲南省剣川県。ここでは木彫による装飾戸や窓、家具や工芸品などの製作が地域をあげて行われている。その文化は千数百年もの歴史をほこり、いまでは新築された住宅をはじめ、はるか遠くはアメリカからの需要もある。腕ききの職人たちが、伝統を守りながらも、新しい技術にさらなる磨きをかけているのだ――。
 

茶馬古道の宿駅

剣川県城の民家にあるのは、ほとんどが地元産の伝統木製家具である

 雲南省の剣川県を訪れたときは、稲の収穫期であった。ここは雲南省大理ペー族自治州の西北に位置し、大理、麗江、迪慶、怒江にかこまれた風光明媚なところである。自然に恵まれたペー族の村は、赤い土壁と黒い屋根瓦の民家に古木がはえて、美しいコントラストをなしている。働きざかりの人々は、忙しそうに干したもみ米を集めていた。老人たちは亭々とした古木の下に腰かけて、子どもたちをあやしていた。まるで絵のような田園風景が、懐かしい心地よさと安らぎを与えてくれるのである。

剣川古典木彫家具工場では寺院におさめる仏像を製作していた

 静かな農村生活の背後には、悠久の歴史とともに厚い文化の蓄積がある。

 剣川県は、もともと「茶馬古道」の重要な宿駅であった。6世紀末から7世紀初めに形づくられた茶馬古道は、テン(雲南)と蔵(チベット)をつなぐ、茶葉、塩、馬、薬材、毛皮などの貨物交易のルートだった。南から北へ向かう隊商たちは、剣川から中甸へと北上し、そこからさらに四川やチベットの中腹へ行くことができた。南へ向かうには、蒼山西道を経由すれば東南アジアや南アジアへ行くことができた。

 剣川の沙渓鎮(町)には、茶馬古道に唯一残された定期市のたつ通り「寺登街」がある。現在の寺登街を歩いていくと、大きな古木の緑陰が落ち、まだら模様の石畳の道とその両側に建ちならぶ古い店が、歳月の移り変わりを語りかけるかのようだ。ペー族の典型的な民家建築の特色をもつ「三坊一照壁」(庭を囲んで三つの建物と目隠しの塀で構成される)、「四合五天井」(庭を囲んで四つの建物と、それにつながる四つの小室があり、建物と小室の間にある小庭の合わせて五つの庭で構成される)スタイルの古い住宅には、精緻なまでに彫刻された門楼(屋根つきの門)、窓格子、格子戸があり、訪れる人を驚嘆させる。

100人以上の職人をかかえる剣川古典木彫家具工場。年間生産額は200万元以上に達する

 剣川県の県城(県庁所在地)から西南へ25キロの石鐘山には、唐代(618〜907年)に開削されたという仏教石窟がある。その造形は生き生きとして真にせまり、彫刻技巧にすぐれている。とりわけ石刻の内容は、テーマが豊富であるばかりでなく、少数民族の特色をそなえている。貴重な歴史文物と彫刻芸術の価値により、それは「国家重点文物」に指定されている。

 石刻は、古代の社会生活や仏教芸術、各民族の文化交流を今に残すものである。そして木彫も、剣川人の生活のなかに、しっかりと深く根をおろしている。

「木彫の郷」

剣川古典木彫家具工場で生産された木彫「18羅漢」

 ペー族が居住している大理では、木彫の装飾門窓(戸や扉、窓)が広く行きわたっている。通りの店や民家では、いたるところにさまざまな木彫装飾門窓を見ることができる。あるものは素朴で優雅、またあるものは華麗で精緻……。各家庭の生活と同じように、それぞれの特色がある。これらの木彫装飾門窓の多くは、剣川の木匠(木彫職人)たちの手によるものだ。

 史料の記録によれば、剣川木彫の起こりは、唐代の天宝年間(742〜755年)。現存するもっとも早期の木彫は、剣川沙渓の「南神廟」の木彫屏風だ(現在は雲南省博物館に収蔵されている)。この宋代の大理国時代の遺物は、すでに7、800年の歴史をほこる。

張月秋さんの家内木彫工房

 剣川が生んだ木匠は、人数が多く、技芸も高く、それはひとしく雲南のトップをほこる。雲南の西部一帯には「麗江パーパー鶴慶酒、剣川木匠到処有」、麗江のパーパーと鶴慶の酒は名高く、剣川の木匠はいたるところにある(パーパーは小麦粉をこねて焼いた麗江の名物食品)という言い方がある。剣川の木匠は雲南各地に進出しており、雲南省内でも一部の有名な木彫や建築、たとえば昆明の「金馬碧鶏坊」、保山の「飛来寺」、ジ海の「八角亭」などの木工部分は、いずれも剣川の木匠たちの手によるものだ。1996年、剣川は国家文化部(文部科学省にあたる)より、「中国木彫の郷」と名づけられた。

剣川県獅河村は、各家が木彫工芸で生計をたてているので「木彫の郷」と呼ばれている

 現在、剣川県で木彫生産をおこなっている企業は8社、個人経営の製作所はさらに多くて、約2000軒。全県において、木彫の仕事に従事している人は7000人以上にのぼるという。

 剣川県の「古典木彫家具工場」は、もとの国営・木製家具製作所を基礎にして改築されたものである。その技術力は高く、さらにペー族の著名な画家2人を芸術顧問として招いている。そのため製品の出来は精緻で、使う材料にも凝っており、伝統木彫の彫刻法や技芸がそこに残されている。

張月秋さんの家で作られた木彫門窓は、各地で人気を呼んでいる。隣村にある工房を集めて集団公司(グループ会社)を設立したい張さんは、その準備に余念がない

 工場長の段国良さんの紹介によれば現在、工場には100人あまりの職人と、3、4人の設計士がいる。主な製品は、伝統家具や寺院建築の木彫、格子戸や窓、観光工芸品などで、合わせて百七、八十種類。年間生産額は、200万元(1元は約13円)以上に達する。

 ここ数年、木材資源が不足している影響で、工場においても大型伝統家具の生産がしだいに減少、小型の木彫装飾品の生産が伸びはじめている。

 今では、ある中国系アメリカ人との協力により、木彫装飾を生産し、アメリカ国内で販売している。それらの木彫様式は、中国の伝統的なもようもあれば、西洋的なもようもある。多くは部屋や家具にほどこす装飾である。この協力プロジェクトは2000年4月にスタート、今ではしだいに大量生産ができるようになってきた。製品はアメリカの10以上の州で販売されているという。「それらの木彫製品は、資源のムダが少なく、工芸も難しくなく、利潤も大きい。今後もこうした製品がさらに発展していくことを願っています」と段さんは語る。

張月秋さんの家内木彫工房で作った工芸品の棺おけ「小棺材」(シャオグアンツァイ)。地元の人が「官」(グアン)、「財」(ツァイ)とその発音が似ていることから考案し、「昇官」(昇格する)、「発財」(もうかる)の意味があるという

 加工現場を見学すると、機械を使って加工する製品は、ほとんどが比較的大型で工芸もわりと簡単そうなものだった。段さんによれば、細かな彫刻が必要な製品や組み立て部品は、いずれも農村へ発注し、腕きき職人たちにより家庭内で完成させる。こうした製品は、全体数の約三分の一を占めるという。

 工場の製品展示ホールで、ミャンマー産の紫チークを使って彫刻された「18羅漢」の像を目にした。その造形や彫刻法、技芸はひとしく「逸品」と称されている。剣川県金華鎮の農民、朱錦華さん、許恵英さん夫妻が、3カ月もの時間をかけて彫刻したものだそうだ。

村の木匠たち

張月秋さんの家では現在、家族全員で木彫装飾門窓の製作に当たっている。年収は5万元にのぼるという

 たしかに剣川の村々には、多くの腕きき職人がいる。彼らの技巧は先祖伝来のものであり、木匠として働くことは、地元の若者たちにはごく自然な選択である。

 獅河村は「人人有手芸、戸戸是工場」(人々に技があり、戸々は工場である)ことから、剣川県の「木彫の村」と言われている。

5層透かし彫り装飾扉(細部)

 獅河村では、張月秋さん(41歳)の家を訪ねた。中庭のいたるところに、製作中の装飾門窓が置かれていた。いく人かの職人が忙しそうに製作に没頭していて、どの職人の手元にも長さの異なる彫刻刀が置かれていた。張さんの妻の楊寿和さんと、75歳の母親でさえも、自分の仕事を担当していた。

 張さんによれば、張家における木彫技術は先祖伝来のものである。その祖父や父、兄はいずれも腕ききの職人だった。張さん自身も、小さいころから大人の仕事を手伝ううちに、自然と習い覚えたという。張さんには3人の娘がいて、18歳の長女・張金魚さんは、大理師範学校の美術学部で学んでいる。次女と三女は、それぞれ高校・中学生だ。

長女と同じように美術が好きな次女も、張さんの右腕だ。父親の指導のもと、伝統的な木彫デザインを描く技術を身につけている

 張家の木彫製作のほとんどが、装飾門窓であるという。「今では生活レベルも上がり、新しい家を建てる人もますます多くなっている。装飾門窓のもようも、ますます工夫されている」と張さんは言う。

 かつて張月秋さんの木彫デザインは、いずれも自分で描いていた。内容は主に、ペー族の人々が好む伝統的なデザインだった。しかし現在、張家においては長女の描いたデザインが、もっとも良くできている。長女は小さいころから見よう見まねで自然におぼえ、さらには学校の専門的なトレーニングを受けている。その張金魚さんが描くデザインは、新味もあれば技巧もあって、利用客から喜ばれている。張家ではいま、わりあい重要で複雑なデザインは、いずれも彼女の手によるものだ。張月秋さんは、この「役に立つ助っ人」のことを、うれしそうに誉めている。

 木彫製品はそのデザインだけでなく、彫刻技術がよりじかに、木彫レベルに反映される。

木製家具を彫刻するさまざまな専門工具
 
自家製の電動のこぎりで、透かし彫りをデザインしていく

 「昔、父の世代のころは、彫刻のもようが簡単でした。基本的には格子戸の上に、一層のもようを彫っていた。ところが今では木彫がより複雑になって、浮き彫り、透かし彫りなどの技法が用いられている。2層、3層、多いものでは4層のもようまで彫りこまれます」と張月秋さんは語る。張さんの家で、4層になった木彫装飾窓を目にしたが、表面の花鳥画ふうのデザインは、立体的で生き生きとした躍動感に満ちていた。

 4層もようが彫刻できる木匠は、獅河村では張月秋さん一人だけではない。2003年、年に一度の「剣川木彫コンクール」では、獅河村の32歳の村人・楊鵬さんが、5層もようの木彫装飾扉で特等賞を受賞した。

村人の楊鵬さん(左端)は10年近くをかけて、5層の透かし彫り装飾扉を作った。2003年の剣川木彫コンクールで、みごと特等賞を受賞した

 楊鵬さんの木彫扉(上・中・下板が各6枚、合わせて18枚)には、10年近くの歳月がかかったという。木工芸の複雑さ、難しさがわかろうというものだ。こうして、その木彫扉は「売ってしまうには忍びない」と、今でも楊鵬さんの家に置かれている。

 彼の家では父が教師で、もともと木彫の仕事に携わっていたわけではなかった。しかし、木彫が好きだった楊鵬さんは1988年に中学を卒業後、その独学をはじめたのだ。幸いにも村のいたるところに師匠がいて、彼は一番となる技術を身につけることができた。まさに「木彫の郷」の特殊な環境下にあって、5層もようの木彫が完成したといえるだろう。(2005年8月号より)


 
 
 


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