民間の文化遺産を訪ねて 馮 進=文・写真
 
 
 
  甘粛省・楡中県の古鎮―青城
水運業で栄えた昔のおもかげ残す
青城鎮の人々の住居にある照壁
 
 
 
古い街道

  蘭州市から約110キロ離れた古鎮、青城には、清の康煕、乾隆、嘉慶、道光年間に建てられた50以上の四合院式の古民家が現存している。

  康煕年間、水運業が発達した青城鎮には、各地方から商人が集まった。建築様式が北京、天津などの特徴を持っているのはそのためである。

  軒や扉など精巧で美しいレンガの彫刻や木彫は、当時の青城鎮の繁栄を今に残している。

黄河の古い町

古い屋敷で、かつての華やかな古い町を回顧する老人

 青城鎮は、甘粛省蘭州市の東北の楡中県内に位置し、蘭州市から約110キロメートル離れている。荒々しく雄大な黄河を望み、北方少数民族地区と隣り合い、地理的にはとても重要であるところから、黄河上流地域の一番古い町と呼ばれてきた。

伝統的な四合院の一角

 歴史の長い青城鎮は、古代では雍州に属していたが、秦(紀元前221〜同206年)の始皇帝が6つの国を統一し、国土を36の郡に分けた時、西郡に属した。

 漢代(紀元前206〜220年)には軍隊が駐屯し、唐代(618〜907年)になると、ここに竜溝堡が築き上げられた。

青城鎮の狭い路地

 宋仁宗(1023〜1063年)の時代には、秦州の刺史狄青が辺境を見回る際この地を訪れ、竜溝堡を拡張し、旧い町と新しい町を1つにした。その様子は、東西に長く南北に狭い細長い町となったので、民間から条城と呼ばれた。正式の「青城」という名前は、人々が狄青を記念するためにつけたものである。

各地の特徴を備えた建築

常麺で客をもてなす鎮文化館の王天恩館長

 明代の初め頃、青城では、軍事要地として大々的に土木工事が実施された。軍事と防衛の必要から、町全体は碁盤目状に作られ、主要なものと副次的なものがはっきりと分けられた。街路の名前は、斉心牌、上下牌、直接牌、三合牌、教場路、箭道巷などと名づけられている。

 鎮の住宅は路地に沿って建てられ、四合院(注)の形を主とし、三堂三廈(3つの母屋に3つの建物)、三堂五廈と三堂七廈に分かれる。これら家屋敷の主は、ほとんどが各地方から来た商人であったため、ここに建てられた四合院は、北京、天津、太原などにある建築の特徴を持っている。

『五子登科』のレンガ彫刻

 異なるのは、寒い西北地域にあわせて、部屋の中にはオンドルが作られているが、オンドルを暖めるかまどが、屋外の窓の下か、切妻壁の下に造られている点である。それによって、部屋の中が煙でいぶされることなく暖められ、きれいな空気を保つことができた。

 各住宅の門楼(屋根のついた正門)にも、6本の柱に支えられた木彫りのものもあれば、レンガ作りのものもある。またある家には、木造による荷車の通用門があり、品物の運搬に便利であった。

門の上のレンガ彫刻。漁樵耕読という庶民の生活を表している

 康煕年間(1662〜1722年)、黄河の南岸にある青城は、水運業がとても発達し、商船が絶えず行き来した。南方各地、陜西省、山西省、北京市、天津市から来た商人はここに集まり商売をし、古い町は周囲数百里にわたる貨物の集散地になり、当地の商業貿易、水タバコ、建築業の発展を促した。古い町は、このころから栄え始めた。

 (注)中庭を囲んで「堂屋」(母屋)、東西の「廂房」(廈房といわれる地方もある)、堂屋と向かい合っている「倒座」の四棟からなる中国伝統的な住宅様式。

客をもてなす「常麺」

高家の祠堂

 青城はひっそりとしており、正月の雰囲気は感じられなかった。狭い路地を通って、鎮の文化館を探し当てた。出迎えてくれた王天恩館長は、「今日は正月15日の元宵節で、この辺の人たちはみんな芝居を見に行きました。食事を済ませたら、この町をご案内しましょう」と言った。

 王館長の家に着くと、熱々の麺を出してくれた。そして、「これはお客様をもてなす時や、結婚の時に客を接待する常麺です。熱いうちにお召し上がりください」と、勧めてくれた。

精巧で美しい木彫

 「この常麺の起源は唐宋時代だそうで、青城乾麺とも言います。手でこねた小麦粉を正方形に伸ばし、交互に折りたたんで、包丁で切ります。できた麺は、春雨のように細いのです。そのあと高粱の茎に麺を吊り下げ、とうもろこしの打ち粉を落とし陰干しにします。食べるときは、ゆでた麺に、豆腐、にんじん、金針菜、キクラゲで作ったソウ子ダレをかけ、さらに山椒の粉、新鮮な生姜、葱、にんにく、青城の陳酢を加えれば、もっとおいしくなります。ここではお見合いのとき、常麺はとても大切な意味を持つのです。例えば、男性が女性の家に来て、もし女性の両親が彼を気に入ったなら、常麺を出してもてなします。もし気に入らなかったら、常麺を出しません。また、常麺で客をもてなすのは、常に行き来するという意味もあります。皆さんも、今後、度々ここにおいでください」と常麺について語る。

清代の古民居

定西市の秦劇団は、青城鎮の祝日に興を添える

 青城鎮には、50以上の四合院式の古い民家が現存している。そのほとんどが清の康煕、乾隆、嘉慶、道光年間の建築である。正門、照壁(門の真向かいに設けられた目隠し用の塀)、母屋、廈房(母屋の両側の建物)、壁の角、軒、扉、窓などには、いたる所に精巧で美しいレンガ彫刻や木彫が見られる。

書院に唯一残っている横額

 福禄寿や、琴や棋(碁)、書画をたしなむ様子や、十二支、吉慶有余、満開の牡丹、飛び舞う鳳凰、教五子(『三字経』に記録された典故)、漁樵耕読(漁をする、木を切る、田を耕す、勉学する)などの場面の彫刻は、技術的にもすぐれている。

青城で公演する定西市の秦劇団の俳優

 高家の祠堂に入ると、高い所に掛かっている金色の横額が目に入った。近づいて見ると、進士(科挙の殿試に合格した人)の高鴻儒が咸豊帝から賜ったものだった。

 この祠堂は、山東からの移住民・高氏が祖先を祭祀する場所で、敷地2000平方メートル、建築面積は400平方メートルあり、清の乾隆50年(1785年)に建てられた。

青城鎮の人々は、子供から大人まで書画を愛好している

 正門の両側には一対の石獅子が置かれ、殿堂、周りの廊坊(回廊のついた家屋)は20間ほどあり、建築様式は、典型的な明清時代のものである。

 横額の両側には、彩色が施された祖先伝来の木の骨組みでできた灯籠が掛かっている。毎年、正月15日(元宵節)の夜、各家とも灯籠に火をともし、元宵(餡入りもち団子)を食べ、なぞなぞ遊びをし、賑やかな祝日を送る。

清代の青城書院

昔の県誌には、条城、蘭州、西古城の位置をはっきり記している。「上に条城、下に西古」と呼ばれ、当時の蘭州の外に栄えた2つの鎮をさしている

 祠堂を出て青城書院に来た。この建物は、清の道光11年(1831年)に建てられ、174年の歴史を持つ。水タバコ商人、楊順倫や顧永泰などの提唱で、各方面から資金が集められた。また教育に熱心であった有力者・顧名と張錦芳の主宰により、当地の煙草税の中から控除金が取り出され、書院建造の経費に当てられた。

当地で生産された「条字」商標の水タバコ

 建築当時、書院の門前には、彫刻が施されたレンガ作りの照壁があった。しかし現在は、門の上に掛かっている「青城書院」の四文字の横額しか残っていない。

 書院からは科挙の試験に合格するなど、多くの人材が育った。

 清の光緒30年(1904年)に科挙が廃止され、学堂(学校)が興った。省の督学・楊漢公は書院を視察し、地方の有力者と協議した結果、青城書院を皋楡聯立高等学堂に改名した。皋(皋蘭)、楡(楡中)両県が管轄している黄河両岸の200人あまりの学生は、ここで教育を受けることになった。

宋代から伝えられた「武鼓」

祝日には青城の男たちが、「武鼓」を叩きながら、町を練り歩く

 書院を出て、民家を訪ねた帰り、遠くから爆竹や銅鑼、太鼓の音が聞こえてきた。晴れ着を身につけた男たちは、大きな「武鼓」を叩きながら、こちらに歩いて来る。

 この「武鼓」はとても珍しく、普通の「腰鼓」より長くて太い。宋代、義兄弟の契りを結んだ36人が、太鼓の中に武器を隠し、官府に捕らえられた義兄弟の1人を救い出すために、太鼓を長くて太いものにしたといわれる。今に伝えられた「武鼓」は、「英雄武鼓」とも呼ばれている。

 天地を揺り動かすような太鼓の音に、人々は次から次へと家を出て、街に集まり、祝日を祝っていた。(2006年2月号より)


 
 
 

 
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