民間の文化遺産を訪ねて 侯若虹=文 馮 進=写真
 
 
 

雲南省・鶴慶県新華村の金属工芸
代々伝わる「一家一品」の現在
心を込めて工芸品を製作する新華村の若い職人たち
 
 
 

  金属工芸でその名を知られている、雲南省の鶴慶県新華村。それぞれの家には、代々工芸品作りの技術が伝わり、そのレベルの高さは広く知られている。しかし代々受け継がれてきた各家独自の技術や製品は、時代の移り変わりとともに変化し始めている。

レベルの高い技術を持つ「鶴慶職人」

民間工芸品の製作で豊かになった新華村

  雲南省大理ペー族自治州の北側に位置する鶴慶県は、旅のコースとして知られる大理―麗江―迪慶(チベット族自治州)の中心にあり、金沙江が県内を流れている。この辺りは山河が雄大で美しく、川や谷、山間の平地が入り混じった素晴らしい風景である。

農作業や子供の面倒、食事の用意など、なんでもこなす働き者の新華村の婦人

 鶴慶県はもともと水の郷で、伝説では、釈尊が鶴慶の土地を開いたときその慶いに白い鶴の群れが飛んできたことから、鶴慶と言われるようになった。また、「白鶴の郷」という名前もある。この県には多くの池があり、その数は108にも上る。大小様々な泉が湧き出る所は、数え切れないほどだという。

鶴慶県ではこのような池が随所に見られる

  風光明媚な鶴慶県は、村人の数に対して土地が少ない。そのため地元の人は、農作業を終えた後、手工芸品を作って生活費の足しにしてきた。唐時代の南詔国の時期にはすでに、農具や生活用品を作っていたといわれている。

  独特な地理的条件を持つ鶴慶県には、ぺー族、漢族、チベット族、ナシ族など多くの民族が集まり、それぞれの文化が溶け合った。そのためこの場所で作られる工芸品には、民族的な味わいが具わり、農具や馬具、日用品の水がめ、急須、鍋などにも各民族の特徴が現われている。

新華村の街角で、のんびりと腰を下ろす老人や子供たち

  手工業の発達によって、鶴慶県は、昔から絶えることなく商人が集まり栄えてきた。この地で作られた各種の生活用品は、雲南の西からミャンマーなどの国へ行く交通の要路「茶馬古道」を通って各地まで届けられ、鶴慶もこの古道における商業上の要所となった。

  明時代の中期になると、鶴慶県の職人たちは、旅の荷物と作業道具を天秤棒に担ぎ、製品を作りながら村々を売り歩いた。

 今まで銅製品だけを作っていた職人は、しだいに金や銀の製品も作るようになり、生活用品から宗教用品、各民族の飾り物と、その種類も増えていった。それとともに職人の技術も磨かれていき、「鶴慶職人」の名声が全国に知られるようになった。

「朝の音楽」は金属を叩く音

新華村のすべての家には、きれいな水が湧き出る泉がある

 もともと石寨子と呼ばれていた新華村は、鶴慶県城の西北7キロの鳳凰山のふもとにある。鳳凰山に登ると、新華村の田園風景が一望でき、底が見えるほど澄んだ黒竜潭という池は、青い空や白い雲を映し出している。

 村から1キロ離れた東南には、約2000ムー(1ムーは6.667アール)の湿地がある。水が豊かで、レンコンや菱、魚やエビが多くとれ、夏にはハスの花が咲き誇り、冬には野鴨などの水鳥が群れをなして生息している。季節によって異なる高原水郷の風景は、人々に忘れがたい思いを抱かせる。

銀の装飾品を専門に作る寸ト昌さんの仕事場

  新華村を歩いてみると、白い壁に灰色の瓦の民家が多く、美しい模様を彫刻した「門楼」(屋根のついた正門)がいたる所で見られ、多くの庭には、きれいな水が湧き出る泉があった。

  新華村には、約1100戸、5000人あまりの人が住み、ペー族は98.5パーセントを占める。そしてそのほとんどの家が、銀器を作り販売する小さな店を経営し、庭や店のそばが仕事場になっている。毎日、朝早くから、金属を叩く音が村のあちこちで聞こえ、さながら新華村の「朝の音楽」のようである。

次の世代を育てるには、文化知識がもっと必要であるということに気づき始めた新華村の人々は、学齢前の子供たちに学習クラスを設け、勉学のチャンスを与えている

 村の人たちは、自分の家独自の製品を作っている。銅製の急須を作る家もあれば、銀製の装飾品や民族の特色をもった宗教用品を作る家もある。それぞれの家に代々伝わってきた数々の製品が、この村の「一家一品」である。

 この「一家一品」のおかげで、手工芸品の種類は多く、品質もよいため客層も広い。いい形での競争の状態が形づくられ、村人たちはより一層お客さんに喜んでもらえるような工芸品作りに励んでいる。

代々伝わってきた技術の行方

新華村のほとんどの家が銀器を作っている

 銀の装飾品を専門に作っている寸昌さんは、今年54歳。店には、銀の腕輪やネックレス、装身具が並び、その1つ1つに寸昌の名前が刻まれている。

  「私の名前がこの製品の質を保証しています。ですから何の心配もいりません。もし何か問題があったら持ってきてください」と、職人気質の寸昌さんらしい言葉である。

寸ト昌さんの仕事場で銀の腕輪を作る職人

 寸昌さんは、14歳から金属工芸の技術を学び始めた。今ではベテランの職人で、数人の弟子を持っている。製品の多くは、雲南省だけでなく少数民族が住むほかの省で販売され、売れ行きも上々だ。寸昌さんの年収は3万元を超え、今住んでいる家は、1999年に30万元をかけて建てられた。

  代々受け継がれてきた家伝の技術を、寸昌さんは自分の子供には伝えなかった。大学を卒業した2人の息子は、それぞれ雲南省の機械工場と、鶴慶県の公安局で働いている。寸昌さんは、自分の技術の将来についてこう語る。

 「子供たちは勉強が好きで、大学を出て、将来性のある仕事につきました。村には、技術を学んでいる若者も多く、私が持っている技術は、親戚の子供に伝えればいいのです」

若き職人たちの試み

新華村の手工芸品は村の観光業の発展を促し、村人の生活も徐々に豊かになってきた

 新華村では、新築している家を所々で見かけた。その中の1軒、寸光偉さんの家を訪ねた。27歳の寸光偉さんはペー族。2人の弟子と一緒に作っていたのはマニ車だった。

 寸光偉さんの家も、代々続いてきた職人の1家である。彼は5人兄弟(4男1女)の末っ子で、中学校を卒業すると、お兄さんたちに手工芸の技術を学び始めた。兄弟の中で父親について技術を学んだのは、一番上のお兄さんだけだ。親の世代は主に、鍋、鉢、ひしゃくなどの生活用品を作っていた。

チベット仏教で使われる銀器の形や製作方法を弟子に説明する寸光偉さん(右)

  1990年代になると、家の仕事はおもに、寸光偉さんたち4人の兄弟が担うようになった。そしてその当時、市場で芸術品の需要が日ごとに多くなる様子を目の当たりにした寸さん兄弟は、チベット族の芸術品をまねて製品を作り始める。

寸光偉さんが作った精巧な銀製品

  93年、3人の兄弟はチベットへ行き、製品を作って販売する店を開いたが、光偉さんと2番目のお兄さんは故郷に残り、両親の面倒を見ながら商売を続けてきた。現在、彼の年収は約10万元。新しい家は40万元で建てた。弟子も、15歳から33歳の5人を抱えている。

  この地は、人が多い割には耕地が少ない。そのため新華村をはじめ鶴慶のペー族には、あちこちに出稼ぎに行く習慣があると寸光偉さんは言う。

銅製の「九竜壺」は寸発標さんのオリジナルで、村の手工芸品の中でも屈指の製品である

  鶴慶は迪慶チベット族自治州と隣接しているため、多くの人がその地に行く。チベット族の英雄として言い伝えられているゲサル王の刀のさやは、新華村の職人が作ったといわれ、同村の人たちが作った工芸品の多くも、チベット族文化の影響を受けている。

 絵を描いたり、色々な事を研究したりすることが好きだという寸光偉さんは、今までに作られたチベット族の装飾品を参考にし、チベット仏教やチベット族の伝説に関する多くの書籍を調べて、独自の作品作りをしている。今、作っている「酥油灯」やマニ車などに見られる模様も、彼の手によって描かれている。

 寸光偉さんには寸国相くんという5歳になる息子がいる。息子にはしっかり勉強をさせ、将来、何がしたいのか自分で決めてほしいと思っている。村に作られた学齢前の子供たちの学習クラスでは、国相くんが絵を学んでいた。その幼い姿には、寸さん一家の願いが重なって見えた。

中国民間工芸品の郷

発標さんは手工芸品作りで、いち早く生活が豊かになった一人である。立派な住宅は、彼の経済力を示している

 現在、鶴慶県には、金属工芸品の製作農家が3000戸以上あり、2万人が従事している。製品は中国全土だけでなく、タイやミャンマー、インド、ネパール、パキスタン、日本、米国などの国でも販売され、年間販売総額は1億元近い。そのため鶴慶県は文化部(日本の文部科学省に相当)から「中国民間工芸品の郷」と命名された。

 それぞれの家に独自の技術と作業場を持ち、「一家一品」という特徴は、各地からの観光客を引きつけて止まない。現在、村の自動車道のそばに大きな工芸品市場も建てられ、種々様々な金属工芸品が売られている。新華村で作られた銀器や銅器は、この地を訪れた観光客たちを通して、各地へ広がっている。(2006年4月号より)

 

 
 

 
本社:中国北京西城区車公荘大街3号
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