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慶陽市で開かれていた「第五回端午香包民俗文化精品展」 |
西峰区は新しくできた街だ。旧暦5月5日の端午節になるとここでは10日間、匂い袋の「香包」の文化祭が行われる。街の中心にある繁華街の両側には、少なくとも2、3キロの距離に「香包」を売る露店が並び、多くの客は色鮮やかな「香包」を選んだり、首に掛けたりしていた。またチマキやヨモギを売る人もいて、繁華街は祝日の雰囲気に満ちあふれている。
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若い人も「香包」を買いにやってくる |
端午節の早朝、郊外の董志鎮周荘村に住む呉桂珍さんは、家族とともに、門の上にヨモギを掛けていた。ちょうど弟さんが孫を抱いてやって来て、彼女はうれしそうに、戸棚からいくつかの「香包」を取り出して孫の首に掛け、ヒキガエルが刺繍された「香包」を服に縫いつけていた。
端午節の前は、「香包」を作る女性たちにとって、最も忙しい時期だ。五色の糸で刺繍された「香包」は、ヒキガエル、ムカデ、サソリ、ヤモリ、ヘビなど、五つの毒を持つ虫のデザインが多く、それは「毒をもって毒を制し」、害のある全ての毒虫を除くことを意味している。
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端午節には、農村の家の門の上にヨモギがかけられる |
端午節は中国人の伝統的な祝日であり、昔から伝えられてきた「衛生の節句」でもある。5月には害虫が多くはびこり疫病が流行するため、人々はこの日にヨモギやショウブを家の門に掛けたり、「香包」を身につけ、「雄黄酒」を飲んで殺菌して病気を防いできた。
「香包」は古代、香嚢といわれ、「荷包」とも呼ばれた。布で様々な形を作り、中に香りのある草などの薬草を入れて、胸の前や腋の下につけて、災いや病気を払った。そして同時に、芳しくて美しい「香包」に吉祥も託した。今では、「慶陽香包」の意味は広がり、立体的な造形と刺繍を組み合わせた全ての民間工芸品を指すようになっている。
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左淑琴さんと夫が開いた「香包」の店 |
端午節の間、市の中心では大規模な「香包刺繍」の展覧会も開催される。慶陽市の7県1区がそれぞれ展示場を持ち、100万以上の大きさの異なる「香包」が展示されて、美しさを競い合う。
慶陽の「香包」は、身につけるもの、飾るもの、実用のものなど、200以上の種類に分けられる。「香包」のデザインのモチーフはとても多く、伝統的な花鳥や虫、魚、十二支、吉祥図案から北京オリンピックのマスコット「福娃」まであり、豊かな文化が表現されている。
年間売り上げは一億元
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孫に「香包」を縫いつけている呉桂珍さん |
慶陽は中国でも有名な「香包」芸術の郷だ。現地の「香包」研究者の余正東さんは、自らの本でこう書いている。
慶陽は「香包」の発祥地で、黄帝の時代に作られるようになった。慶陽は黄帝が生活していた場所で、漢方薬の始祖・岐伯の故郷でもあった。調合した香料を「香包」に入れて疫病を防ぐようになったのは、岐伯の考案による。
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「香包」を首に掛けた女の子 |
慶陽のほとんどの家が「香包」を作っている。農村の女性たちは、端午節に作った「香包」を身につけたり、互いに贈ったりするばかりではなく、日常の生活でも「香包」と密接なつながりを持ってきた。特に、結婚や祝日、誕生日祝いの時には、「香包」や刺繍品は欠かすことができない。「8歳で針仕事を学び、13歳で刺繍を習い始め、オシドリを刺繍する」という風習により、女の子は嫁に行く前に、自分と新郎のために、刺繍した服や靴などの嫁入り道具を準備しなければならない。
1980年代から、街で「香包」を売る人が現れ始めた。そしてしだいに「香包」を売る人が増え、「香包」の形もますます豊かになっていった。最近では、政府が「香包文化祭」を開催し、「香包」の販売を推し進めている。今では慶陽市で「香包」を作る人はすでに10万人を超えた。慶陽の「香包」は、北京、上海、広州、西安、蘭州など30あまりの都市と、香港・澳門・台湾地区、そしてアメリカ、日本、韓国など20以上の国で売られ、年間売り上げは一億元に達している。
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錠とハート、オシドリと「天長地久」は、愛情を象徴する「香包」のデザインだ |
五毒が刺繍されたカニの形の飾り物 |
清代晩期の「香包」(盧造池所蔵) |
もっと豊かな制作のために
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紐や房などの飾り物をつけて完成 |
西峰区の文学芸術家連合会の副主席・盧造池さんを訪ねた。盧さんは1982年から「香包」の収集を始め、「香包文化祭」では、何度か収集展を開いている。また「香包」の刺繍方法や香料の調合、各時代の慶陽の「香包」の特徴と、そこに含まれた文化を研究し、「香包」以外にも、結婚の時に使われる肩掛けや、腹当て、靴の中敷なども集めている。その多くは日常品だが、とても緻密に作られている。昔の「香包」は、親戚や仲のよい友だちに贈ったり、男女の恋愛や結婚の契り、神仏に対する敬虔さを表すためのものであったため、心をこめて作らなければならなかったと盧さんは話す。
盧さんは研究しているうちに、分かったことがある。それは、慶陽の「香包」は6、70種類の刺繍方法があり、その多くが江南の蘇州の刺繍と同じなのだが、その中の何種類かの技法は、この土地独特だということだ。しかし、今よく使われているのはわずか20種類あまりで、約20以上の技法はすでに伝わっていない。盧さんは、優れた伝統を掘り起こして整理し、今の「香包」作りを豊かにするのが自分の仕事だと言う。
80年代から各地で販売
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盧造池さんの家は収集品で占められている |
西峰区から20キロあまり離れた顕勝郷毛坡村は、「香包」の有名な産地として知られている。この村の人は以前、平地に5、6メートルの深さの四角の穴を掘り、4つの側面に横穴を掘った「窰洞」式の住居に住んでいた。現在、2、3世帯以外の村人は、地面に建てられた瓦葺の家に住んでいる。
左淑琴さんの家は四合院で、母屋が客間になっている。門の右側は展示室兼販売室で、中には様々な「香包」の見本品がたくさん掛けられていた。西側の部屋は、寝室と仕事場で、作っている途中の「香包」が、所狭しと積まれていた。
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劉彩鳳さん夫婦は材料を選び、布を裁断して、魚の形の「香包」を作っている |
今年47歳になる左さんは、小さい頃から刺繍が好きで、今では「香包」作りの名人だ。1980年代に彼女は、自分で作った「香包」を持って、西安、蘭州などの観光地へ売りに行き、「香包」は飛ぶように売れた。それから農閑期になると、彼女は夫と一緒に大都市へ「香包」を売りに行き、家に帰ってからも続けて作るようになった。
数年前、彼女は「香包」の販売会社を創設し、息子さん夫婦と一緒に経営している。左さんは自分で制作するだけでなく、自分の村やほかの村の約百世帯の人たちに「香包」製品の加工を手配し、北京や深ロレ、広州などの大都市や青海省で販売している。去年、作った「香包」は、約30種類の2000個以上で、約20万元の売り上げがあった。
民間芸術の発展と保護の道
慶陽市華池県の文化館に勤めている42歳の趙興萍さんは、「香包」の生産組織を専門に担当している。彼女は農村の女性に「香包」作りの指導をしながら、絶えず新しいデザインを試みている。
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自分がデザインした新しい製品を紹介する、華池県文化館の趙興萍さん |
趙さんは農村の出身で、祖母は名の知られた切り絵と刺繍の名人だ。彼女は7、8歳から祖母について習い、刺繍の模様を描いたり、窓飾りの切り絵や「香包」を作ったりしてきた。高校を卒業して郷の文化ステーションに勤めてからは、豊かな民間芸術に触れるようになり、彼女は労苦をいとわず、百以上の村を訪ねた。そして一万あまりの民間芸術品のデザインを集め、その中から「養分」を吸収していった。
また彼女は、北京の中央美術学院で一年間勉強し、自らの芸術的教養を高めた。2003年、切り絵の創作で業績を上げた趙さんは、中国民間工芸美術委員会から「民間工芸美術大師」と命名されている。展覧会では、百個近くの彼女がデザインした無邪気でかわいい「虎シリーズ」の「香包」が展示されていた。これは、地元の切り絵と刺繍の中で表現されている虎の、基本的な形の特徴を取り入れている。
そして、趙さんのような専門の芸術教育を受けた後継者にも何人か会った。先代の影響を受けた彼女たちは、民間芸術を愛しながらも現状に満足せず、民間芸術の発展と保護の道を絶えず捜し求めている。(2006年10月号より)