民間の文化遺産を訪ねて 侯若虹=文 馮進=写真
 
 
 

湖南省・桂陽県の陽山村
女児の命を大切にする客家の村
陽山村では、村人の姓はすべて「何」である。家譜の記載によると、村の歴史は500年あまりに及ぶ
 
 
 
絵村の名前は、背後にある陽山にちなんでつけられたもの。2004年には、「湖南省歴史文化名村」に指定された

  豊かな自然に囲まれ、風水に恵まれた湖南省桂陽県・陽山村。子孫の教育に力を注いだこの小さな村には、かつて進士や貢生、挙人など多くの人材を輩出し、数百年にわたって素朴で善良な民俗気風を守り続けた客家の伝統が色濃く残っている。



悠久の歴史をほこる客家の村

民家の中庭には、雨水を収容する石づくりの水槽が設置され、長い年月にわたって、雨のしずくが石をうがち、凹みができている

 初秋、湘南(湖南省南部)にある桂陽県を訪れた。残暑もすっかりなりをひそめた季節だというのに、この地の野山は依然として深い緑に覆われていた。湿っぽい空気には涼しさが漂い、すがすがしい気持ちになる。

 桂陽県は、湖南省チン州市に属する由緒ある県城である。記載によれば、行政区域の名前として「桂陽」が最初に使われたのは、戦国時代のこと。桂陽の統轄範囲は、長い歴史の中で幾多の変遷を経て、現在に至っている。

民家の正門の軒先に敷き詰められた瓦は、軒口から流れ落ちる雨水の下降速度を緩め、離れたところに流れ落ちるようにすることで、軒下の浸食を防止する。その下は、この地の民家の特色ある壁画やレンガ彫刻で装飾が施されている

 桂陽県正和郷にある陽山村は、桂陽県の県城から約16キロのところにある。車で向かう途中14キロ地点のあたりで、2つの山に挟まれた狭い道になる。そこを抜けると、突然目の前が開けて明るくなる。前方には、広々とした水田が広がり、くねくねとした小川が流れている。正面にある臥牛山は、寝そべった牛が河辺に頭を伸ばして水を飲んでいるかのような形をしている。木々が青々と茂った山の麓に、灰色の壁と黒い屋根の古い民居の立ち並ぶ、陽山村がある。

 風水に詳しい人によれば、地相の良い土地だという。背後にある臥牛山は、村の後ろ盾であり、障壁でもある。村の東西にも山があり、両側から村を抱きかかえるように守っている。村の前を流れる陽山河は、まるで昔の官吏が腰に締めていた玉帯のようであり、村に良い運気をもたらすものだという。

 風水がわからない人から見ても、山の麓にある陽山村は、やや地勢が高く、洪水の憂いを免れていることがわかる。村の前には、無数のあぜ道が縦横に交差し、小川がさらさらと流れている。この小川は、風景に美しさを添えてくれるばかりではなく、飲用水と消防用水を人々に与えてくれる。遠くに広がる青々とした山々に取り囲まれた風景は、まるで絵のように美しく、人々は静かで穏やかな生活を楽しむことができる。

民家の広間は、主人がお客様を招待する場所である。両側にある椅子は客に陪席するために用意されたもの 風通しや採光を考慮し、設けられた中庭 民家の配置は、主に1つの中庭に3つの部屋という形となっている。2つの中庭や3つの中庭という配置がごくまれにある

 現在、村にある118戸の家は、すべて「何」という姓である。その家譜によれば、陽山村の歴史は500年あまりに及ぶという。最初の基礎を築いた始祖は、江西省出身の何臣である。彼は元代の進士で、かつて柳州府の通判(府の長官に次ぐ地位)に就いた。引退して江西省廬江郡の故郷へ戻る途中、まるでこの世の仙境のようなこの地を目にした何臣は、家族と共にそのまま住みついた。その後、何氏一族はこの地で子々孫々を増やしてゆき、現在のような客家の村を形成していった。 自然と調和した民家  陽山村の民家は、山に沿って、低い所から高い所へ向かって、入り乱れるように立ち並んでいる。民家と民家の間には路地が通じている。その幅は揃っており、石板や黒レンガ、玉石で舗装され、平坦ですっきりしている。

独特の風格を持つ木彫りの窓の飾り

  60軒あまりの民家が、まっすぐな路地によって前村、中村、後村に分けられている。すべての路地に設けられている「月亮門」(壁を円形にくり抜いた門)は、昼間は通行の妨げにならないよう開かれており、夜はそれぞれの民居に独立した庭ができるよう閉じられる。

 村のトイレ、ブタ小屋、ウシ小屋などは村の背後の山の麓に設けられている。そのため、村の空気は新鮮で、清潔な環境が保たれている。井戸は、水質によって三級に分けられ、一級は飲用水、二級は野菜や米を洗う水、三級は洗濯用水と定められている。こうすることで、飲用水の衛生と安全を保っているのである。

 陽山村に現存する民家は、明や清の時代に建てられたもので、基本的に徽派(かつて徽州と呼ばれた安徽省南部一帯特有の伝統的なスタイル)民家の建築様式となっている。灰色の壁、黒い瓦、「硬山頂」(雨がたまりにくい急勾配のついた屋根)、「馬頭牆」(階段状の切妻壁)がある。現在の住民はみな普通の人々で、高官や貴い身分の人などはいない。そのため、ここの建築はあまり高級なものではなく、一般的に三つの部屋と一つの中庭で構成されている。使われている建築材料は、主にレンガと木材で、色は灰色と黒のものが多い。

民家にかけられた扁額

 ここの民家にはとりわけ独特な特徴がある。古代より家は南向きに建てるのが普通であり、したがって門はおのずと南に面したものになる。しかしここでは、帝王宮殿と同じ方向を向くというタブーを避けるために、民家の門はわざと真南からずらした位置につくられている。そのため、魔除けが必要となってくる。そこで、村人たちは正門のかまちの横木に、魔を遠ざけ平安を祈念するために、さまざまな八卦模様の細やかな彫刻を心をこめて施した。その他、「双竜戯珠」(珠と戯れる二頭の竜)、「鯉魚躍竜門」(登竜門)、「招財進宝」(縁起の良いこの四つの文字を組み合わせて一つの文字のようにした図案)などの透かし彫りを木製の門や窓にも施し、吉祥を祈り、幸福を願うのである。

 村人はまた、すばらしき生活に対する追求をも建築に託した。例えば、正門の木材の選択にはこだわって、カシ(鯣)、キササゲ(梓)、モクセイ(桂)という三種の木材を選び、それぞれの中国名をつなげると同じ発音の「諸子貴」という意味になるのを踏まえ、子孫の富貴を願った。さらに中庭側の軒先の瓦当には、念入りに「福」という字を刻み込んだ。こうして、風通しや採光が考慮された中庭は、さらに「福は天から降りてくる」という、よりすばらしい意味を持つものともなっている。 長い歴史を持つ儒家文化  陽山村の最大の魅力は、商人が集まる村ではなく、典型的な文人の村だったところにある、と考えた学者もいる。

民家の正門の上のレンガに、何氏宗族を象徴する「柏台」という文字が刻まれている。言い伝えによると、明代の何塘という人物が、南京の右都御史(秘書官のような仕事をする官職)に就いた後、名前を「柏斎」と改めた。後世の人々はこれを以って一族の子孫に末永くこの家風を引き継ぐよう激励するため、「柏臺」の文字を刻んだという

 陽山村を歩いてみると、いたるところに石柱、「栓馬石」(馬をつなぐ石杭)、「旗桿石」(旗をかける石)などの遺跡や遺物を目にすることができる。これらはすべて、かつて科挙に合格し出世した子弟たちの精神を宗族が奨励し、その子孫たちが功をなすよう励ますためのものであった。

 民家の内部では、数百年もの間風雨にさらされてきた大量の対聯(吉祥の対句を書き分けたもの)や看板、扁額および壁に記された書や絵を見ることができる。対聯や看板、扁額の文字は、皇帝の命により朝廷の重職にある官吏が書いたものもあれば、何氏一族の祖先自らの手になるものもある。壁画の多くは、その家の主人が唐詩や宋詞の中から選びだした詩に絵を組み入れたもので、雅趣を表すだけでなく、知らず知らずのうちに、家族や子孫の文化的教養にも影響を与えてきた。

 対聯や看板、扁額には、「柏臺」「経研」「梅閣」「学海」などの文字がよく見られる。聞けば、これらはすべて何姓の代称であり、その由来は何氏の祖先が学問に励み、官職に就いた話に関わりがあるという。

シバ(もちの一種)をうつく

 例えば「梅閣」は、南朝の何遜を記念するものである。梅の花が大好きなこの人物は、揚州で官職に就いていた当時、まるで梅の花のごとくさっぱりした、清廉潔白で公正だったという。後世の人々は、庶民であろうと、官僚であろうと、世の中をすばらしい香りで満たす梅の花のごとくあれという意味を込め、姓の代わりに「梅閣」を用いた。同時に、「梅閣」にはもう一つの意味があった。梅はもともと北方地区の冬の植物であったが、後に南方及び全国各地へ広がったものである。異郷から移り住み、自己向上のための努力を怠らず、環境に順応してきた客家何氏を象徴する花でもある。

 陽山村の対聯や看板、扁額の内容は、村人の価値観、理想、追求を十分に表している。「佩印堂」は官職や権力への追求、「太極第」は悠々自適な生活への願望、「餘慶堂」は祝いごとや豊作への憧憬などをそれぞれ代表している。

細い竹で編んだ縄を使い、ねばねばした香ばしいシバを道具から引きはがす

 陽山村の人たちは、祖先の訓戒を謹んで守り、文武を敬い尊び、儒家思想の倫理を重んじ、礼儀をわきまえ、農業や養蚕に従事するという伝統文化で子孫を教育し、激励してきた。この小さな村から、500年の間に、進士や貢生、挙人など10人以上の人材が輩出し、将軍や翰林(皇帝の文筆関係の仕事をした役人)に昇進する人が多かったことも、この湘南地区においては他にほとんど例を見ないことであった。 継承されてきた素朴な気風  「天下の客家はひとつの家族」「立派な人間であろうと、他人の助けは必要」というのが、客家の人々が代々継承してきた理念である。陽山村の何氏一族も客家として、湘南の気風に積極的に親しみ、貧しい人を助け、慈善事業などを大切にする伝統を受継いでいる。

由緒ある茶油搾りの作業風景

 破損はしているものの、現在の陽山村には今も古い石碑が残っている。その中の比較的保存状態の良い「救嬰会の序」という石碑は、清の同治3年(1864年)のもので、陽山村の人たちの、女の嬰児に対する特別な思いやりや手厚い対応が記載されている。以下のような記載が残っている。「女児をひとり助けて本会に報告したものには、3200文の奨励金を与える」「村人が女児をひとり産むごとに、本会は穀物2担(1担は50キロ)を送り、生活や生産面において、長期にわたってその家を助ける」「逆に女児を差別視するものがあれば厳重に処罰する」

 陽山村の後ろの山には、今でも「恩徳お婆さん」の墓がある。何氏10代目の子孫何宣の夫人である劉氏の墓である。劉氏は50年以上後家を通し、子供はなかったが、すべてを投げ打って、捨てられていた女児6人を育てあげた。彼女が亡くなると、陽山村の人々は彼女の墓の前に石碑を立て、深い敬意を表した。

村の「救嬰会」「九重会」「義学会」「女児会」などは、代々伝えられてきた何氏宗族のおきてを物語る陽山村の民間組織であるが、現在、人々はこれらを舞台化することによって、村人の由緒ある一族の気風を表現している

 その後、やはり何氏の子孫である何富恵という秀才(1810年生まれ)が、家譜の中の劉氏の話を読み、深い感銘を受けた。そして、穀物やお金の寄付を募り、「救嬰堂」を修築し、「救嬰会」を立ち上げた。

 陽山村には、「救嬰会」のほか、子供たちが勉学にいそしめるよう援助する「義学会」、年寄りを気にかけ、尊重する「重九会」、良くない習慣を戒める「禁戒会」、女性の利益を守る「女児会」などの民間による自治管理組織もある。

 これらの民間組織には、それぞれ厳しい賞罰制度があり、法規の執行が厳正に行われている。だからこそ陽山村は、数百年にわたって素朴で善良な民俗気風を守り続けることができたのである。

 今日でも陽山村では、夜になっても戸締りはしないという。人々は古代の訓戒に従って、節約して家計を切り盛りすることにつとめ、楽観的かつ闊達に物事を処理している。人と人との関係も睦まじく、皆穏やかで和やかな生活を送っている。(2007年2月号より)

 
 

 
本社:中国北京西城区車公荘大街3号
人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。