民間の文化遺産を訪ねて 魯忠民=文・写真
 
 
 

甘粛省・慶陽市の「スオ吶」の調べ
冠婚葬祭に欠かせぬチャルメラ
二人のスオ吶の楽士は、一人が高音、一人が低音で、互いに調和し合う
 
 
 
道端で花嫁の親族を迎える楽士

  スオ吶(チャルメラ)は俗に喇叭(ラッパ)と称され、中国各地で広く流行している民間楽器である。「慶陽スオ吶」は甘粛省の慶陽地区に流行っている、スオ吶を主とし、銅鑼や太鼓、シンバルが伴奏となる民間の吹奏楽と打楽である。その歴史は長く、今に至るまで民俗と密接な関係にあり、独特な芸術のスタイルを持ち、2006年、中国国家クラスの無形文化遺産リストに登録された。

スオ吶の欠かせない人生

スオ吶の音で結婚式に参加したお客さんを歓送する

 慶陽市西峰区の温泉郷橋子村では、のどかな田舎の小道が朝霧に覆われている。案内人がいなくとも、高らかに響き渡る澄んだスオ吶の音で、結婚式を行う家は簡単に見つかった。

スオ吶に導かれ、花嫁は実家の門を出る

 中庭には、おめでたい赤い縁起物がたくさん掛けられ、人々が賑やかに動き回っている。女性たちは料理人を手伝い、火を起こしたり、炒めものをしたり、ホーラウ(そば粉や小麦粉などをこね、ところてん突きのようなものですじ状に突き出し、鍋に落として煮て食べるもの)を作ったりしている。男性とお年寄りは三々五々タバコを吸ったり、雑談をしたりしている。

生涯を通じてスオ吶を吹いてきた劉万順さんは、76歳になった今でもスオ吶は手放さない

 スオ吶の楽隊は庭の入り口に演奏のための舞台を設け、楽士たちが一曲また一曲と心を浮き立たせるような音楽を演奏する。人の出入りが引っ切り無しに続くが、客の中で花嫁の実家の親戚がもっとも重要な客である。客が来ると、爆竹を鳴らし、直ちに楽士が立ち上がり、道端で演奏して出迎える。

当地の風習で、結婚式では、来客が思い切り花婿の両親と冗談を飛ばす

 朝食を食べ終わると、花嫁を出迎えるための花車(花で飾りをつけた自動車)が出発し、2人の楽士もそれにつき従う。車を下りると、楽士は「ワイワイ」と出迎え隊の前を歩きながら吹く。スオ吶の音で、出迎えの人が来たことを知った村中の老若男女が、見物に駆けつける。花婿の家へ迎えられた花嫁が車を下りて門を入るときも、楽士はその前を歩き、次第に高まりゆくメロディーを演奏し、めでたい雰囲気をクライマックスへと盛り上げる。結婚式の全過程は、「認親酒(これから親戚になることを表すために、親族と飲む酒)」から、「拝天地(天地の神と両親に礼拝してから向かい合って礼拝する儀式)」や最後の賓客を送り出すまで、みなスオ吶の音の中で行われる。

当地の隴東(甘粛省の東部)民謡を歌うスオ吶楽隊の楽士

 黄土高原では、貧しい家、裕福な家を問わず、結婚、葬式、出産、長寿祝いのときには、いずれもスオ吶の演奏で興を添え、賑やかにすることが欠かせない。慶陽の人は、生まれてから死ぬまで、ほぼ三度のスオ吶の送迎を経験する。一度目は生後満一カ月の時、新しい生命はスオ吶の音でこの世に誕生したのを迎えられる(赤ちゃんをびっくりさせないよう、スオ吶の演奏をしないところもある)。二度目は嫁を娶るとき、または娘を嫁にやるとき、スオ吶の音で人生を輝かしい転換点に送迎する。三度目は生命が終わりを告げるとき、死者の霊魂をスオ吶の音で天国へ送り出す。

結婚披露宴が始まると、スオ吶楽隊が演目を披露し始める

 そのほかにも、町や田舎を問わず、店舗のオープン、引越し祝い、ヤンコー踊り、新しい窰洞(山西、陝西、甘粛などの各省にある洞穴式の住居)の竣工、縁日の催しなど祝い事であれば、いつでも楽士を呼び、賑やかにやる。 楽士たちの今昔  かつて、楽士の地位は低く、三教九流(さまざまな職業の人、雑多な人をさす)の「下九流」に属した。「72行(職業)、野良仕事が最高」と考えている農民たちから見れば、楽士はまっとうとはいえない職業であり、一般の家庭は楽士と縁続きになるのを嫌った。楽士の子孫は勉強しても、科挙の試験を受けて役人になろうとすることもできなかった。黄土高原では、家伝された楽士が多い。十数代を誇るスオ吶一族もあるが、演奏できる曲は多くはない。

呉存乾さん一家。中央が母、右が妻と孫

 今年76歳の劉万順さんは、幼いころから農業に従事し、学校に通ったことがない。18歳からスオ吶を学び、古びた毛皮の裏地つきの服とともに長年風雪の中を歩いてきた。当時は、どこへ行くにも徒歩でなければならず、遠く50キロ、100キロ離れた場所に行くこともあった。どこかで用があれば、その前日には着いていなければならず、そのときはいつでも牛小屋や馬屋に泊まった。信用を重んじ、生涯、人から頼まれたことを怠ったことはない。承諾した以上、どんな思いがけないことが起ころうと、必ず約束を守った。万が一病気になるようなことがあれば、たとえさらに自腹を切ってでも、他の楽士に頼んで替わりに行ってもらった。

結婚式の司会をする呉存乾さん。ユーモアにあふれ、しゃれをとばす。笑い声あふれる結婚式

 かつて、スオ吶の楽隊は5人から成るものだった。スオ吶を吹くのは2人で、一人が高音を吹いて主旋律を担当し、もう一人が低音を吹いて伴奏する。他の3人はそれぞれ太鼓、シンバル、銅鑼を演奏する。現在のスオ吶の楽隊は、吹奏だけではなく、8人から10人にもなる楽隊である。胡弓、組太鼓、トランペット、揚琴などの楽器を増やし、民間の伝統的な演奏と現代的な電子音楽とを組み合わせ、演目も豊富になった。伝統的なスオ吶の曲、器楽の合奏、秦腔(陝西省で行われる地方劇の一種)もあれば、民謡、ものまね、流行歌もある。しかし、どんな楽器やプログラムが増えても、やはりスオ吶が主役であり、スオ吶の音が鳴り響けば、たちまち深みのある味わいが満ちあふれ、人々を奮い立たせてくれる。 あるスオ吶の楽士の物語  お祝い事に興を添えるスオ吶の興行主である呉存乾さんの8人の仲間の中には、いっしょに芸を学んだ兄弟弟子もいれば、たびたび手伝いに来る専門劇団の楽士もいる。メンバーはそれぞれ多芸多才である。演奏は朝から夜まで続くが、演目が重複することはない。また、興行主は依頼主の家族の結婚式や葬式で司会も担当する。

.短い出し物を演じる、多芸多才なスオ吶楽隊の楽士

 呉存乾さんは、今年40歳。穏やかで情に厚く、愉快で話し上手な人である。彼の「存乾」という名は、「存銭(お金を預ける)」と同音であるが、かつては貯蓄もなく、貧しい生活を送っていた。

 中学校に通っていたころ、ある日、谷へ草刈りに行った存乾さんは、スオ吶を吹いている70歳の老人に出会った。高らかに響き渡るスオ吶の音色に、彼はたちまち引き付けられた。以来、その老人が彼の師匠となった。昼間は草刈りをし、夜、老人にスオ吶を習い、遅くなると師匠の家に泊まった。天賦の才に恵まれた彼は、7日習っただけで、師匠について「顧事(冠婚葬祭にスオ吶を演奏すること)」に行くことができ、1回あたり5角(約7.5円)を稼げるようになった。

天寿をまっとうした人の弔いは「喜喪」といい、もの悲しい曲のほか、伝統的の歌も歌う。両親の恩徳を称賛する内容が多い

 3年後、師匠は亡くなった。2人目の師匠は46歳と若いが、名声の高い人だった。楽隊はさまざまな場所に行くことになり、「顧事」は年間百日余りにも及んだ。やがて、楽隊に役者を増やし、弦楽と管楽も加わった。彼は魚が水を得たように、そうしたものも勉強した。2000年、彼はスオ吶の専門家である梁平正さんに師事し、その専門的なテクニックを大いに向上させた。一年中演奏の場があることで、スオ吶、秦腔の打楽、管楽のトロンボーン、歌、芝居及び民間のものまねなど、さまざまな特技が磨かれていった。2002年、彼は自ら楽隊を組織し、音響の設備を買い入れるなどの投資もした。その後、小型トラックも購入し、きちんとした興行主となった。

 人々の生活水準の高まりに伴い、演出のチャンスは増え、楽士の地位と経済収入も向上した。呉さんの家も、以前とは大きく変わり、きれいな庭つきの瓦葺きの家を新築した。母屋の中では、伝統的なオンドルがスプリング・ベッドに変わった。庭にあるトラックの上は音響設備や楽器、舞台用のテントなどでいっぱいだ。昨日「顧事」を終えて帰ったばかりだが、明日も結婚式を行う家があるため、朝早く出発しなければならず、トラックから荷物を下ろす必要はなかったという。

専門家から見るスオ吶

慶陽スオ吶という文化遺産を守るための努力を続ける梁平正さん

 西峰城に、スオ吶の専門家である梁平正さんを訪れた。彼は1944年に生まれ、慶陽隴劇団を退職し、数年来、スオ吶の演奏と研究に勤しみ、多くの弟子を育てた。

 梁さんは語った。スオ吶は外来の楽器で、約12世紀にペルシャやアラビアから中国へ伝えられたものである。慶陽スオ吶はスオ吶を主とする民間の吹奏楽と打楽で、記載によれば400年以上の歴史があり、1980年代に復興したという。インテリ青年の加入は、かつての口承に限った伝授方式を変えた。現在の慶陽地区では、千人以上がスオ吶の演奏に従事し、スオ吶の楽隊は360以上に及ぶ。

40代の李海成さんは興行主でもある。高校を卒業後、父親について学び、すばらしいテクニックを持つ。近々、彼はスオ吶楽隊を祝典会社へ昇格させ、社会にサービスを提供する

 1983年から88年まで、梁平正さんは同僚たちと共に、慶陽地区の山間部や村落をくまなく調査し、スオ吶の曲を1200首集めた。選別を経た496首が『慶陽地区民間器楽曲集成』に編入された。かつてスオ吶は「一人一つのスオ吶に、それぞれの調子」という状況であった。彼は数年の研究と努力を重ね、慶陽市七県一区のスオ吶の調子を統一した。今、大きなイベントがあれば、慶陽市では数百人のスオ吶の楽士が動員され、すさまじい勢いの合奏になる。

 時代の発展にともない、慶陽スオ吶の曲にも変化が生まれた。喜び、明るさ、高揚した調子が次第に主流となりつつある。春節(旧正月)の間、ヤンコー踊りの隊列では、楽士はいつも色とりどりに装い、その先頭を歩く。中国の著名な監督・陳凱歌が監督し、張芸謀が撮影を担当した映画『黄色い大地(黄土地)』は、慶陽地区を含む黄土高原のスオ吶の名を天下に轟かせた。もっとも中国の民族的特徴をもつ楽器の一つとして、中国の映画やドラマでもスオ吶は頻繁に用いられる。スオ吶が鳴り響くだけで、これぞ中国、これぞ中国の農村というイメージを誘うシンボルとなっている。(2007年4月号より)

 
 

 
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