木と石と水が語る北京D   歴史学者 阿南・ヴァージニア・史代=文・写真

雲居寺雷音堂の朝露
 
 
雲居寺の雷音堂

 雲居寺(北京市西南の房山区に位置)の上にある経文洞に登っていくと、朝露は太古の石段にきらめき、周囲の石の山々は多彩なパレットさながらに輝いた。また暑い夏の一日になりそうだったので、私は早朝登ることにした。ここにはすでに20回ばかり来ていたが、そのつど歴代の僧侶たちが聖なる経典を後世に残そうとした決意に強く心打たれる。

 1985年夏、私が初めてここを訪れたとき、王さんという門番があたりを案内してくれた。「7世紀初頭、創建者静・法師の時代・・・・・・」と王さんは語り始めた。「仏教は最初の迫害の波に直面していました。皇帝でさえ支援の手を引き、全国各地の寺院の閉鎖と経典の破棄を命じたのです。経典が忘れ去られることのないよう、静・法師はこの人里離れた山奥に隠れて、後世に仏の教えを残そうと石板を彫り始めました」

 彼の事業は千年以上の長きにわたり、九つの洞窟に広がってゆき、16世代にわたる僧侶たちが参加した。これは世界最大の石刻板の書庫なのである。

雷音堂の外観

 雲居寺には境内が六カ所あり、それぞれ山腹に沿って一段ずつ高くなっている。1935年、すべての境内を詳細に調査した日本の学者グループが、研究成果と図面を東洋研究誌『東方学報』に発表した。

 しかし悲しいことに、日中戦争中すべての僧院は日本軍との銃撃戦に巻き込まれ、何もかも破壊されて、残ったのは北塔だけであった。初めて私がここを訪れたとき、以前の敷地内に残っていた建造物はこの仏塔と、あとは2〜3の小さな塔だけだった。

 「廃墟を掘っていくと・・・・・・」と王さんは続けた。「かつて南塔が建っていた場所の地下に秘密の収蔵庫があり、そこで石の経典が発見されたのです。さらにがれきを積んで隠した山の洞窟内にも詰め込まれていました」。それは1万4000枚以上の石板の埋蔵所だったのだ。

 王さんはとがった岩だらけの道を上へと案内してくれた。すでにうだるような暑さだったが、さえぎるものとて無かった。40分かかってやっと静エン法師の洞窟、「雷音堂」にたどりついた。中央に小さな仏像を複雑精美に彫りこんだ四本の石柱が立っていた。しかし、真の宝物は四囲の壁に彫りこまれた静エン法師自身の書に基づく最初の経文だった。

 私は、僧侶たちがここに集結し、かくも長い年月、何時間も何日も休むことなく、細心の注意を払いながら石を切り出し、経文を刻むありさまを思い浮かべた。洞窟の上の丘に登ってみると小さな石塔があった。これは四千巻以上の経文を石板に刻む事業を援助した唐の皇女、金仙を記念したものだった。すべては仏教史に計り知れない価値をもたらした。

雷音堂の参堂

 以来、私はたびたび雲居寺を訪れ、彼らが、塚本善隆、水野清一氏など京都大学グループの作成した図面通りに寺院を再建している様を、賞賛を込めて見つめてきた。

 南塔の地下で発見された経文石板は、今、空調のある地下博物館に再び埋蔵された。今では洞窟に登ろうと思えばリフトまである! しかし私は、歳月を経た石を踏みしめ、早朝の光にきらめく露を眺めながら、通い慣れた道を登るほうがいい。(訳・小池晴子)五洲伝播出版社の『古き北京との出会い』より(2005年5月号より)

 
 
     
 
筆者紹介
阿南・ヴァージニア・史代 1944年米国に生まれ、1970年日本国籍取得、正式名は阿南史代。外交官の夫、阿南惟茂氏(現駐中国日本大使)と2人の子どもと共に日本、パキスタン、オーストラリア、中国、米国に居住した。アジア学(東アジア史・地理学専攻)によって学士号・修士号取得。20余年にわたり北京全域の史跡、古い集落、老樹、聖地遺跡を調査し、写真に収めてきた。写真展への出品は日本、中国で8回におよぶ。
 

  本社:中国北京西城区車公荘大街3号
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