木と石と水が語る北京I
歴史学者 阿南・ヴァージニア・史代=文・写真
日本人僧に捧げる柿
 
 
潭柘寺の塔

たった1本の柿の木が、千年以上にわたって北京第一の聖地である潭柘寺の墓地に、光彩を与えている。高くそびえる枝は、つややかな色の柿の実をたわわに実らせ、ある仏塔の頂きを抱いているかに見える。

「塔林」と呼ばれる墓地は、寺院を下った山腹の平らな場所にある。しかし、寺を訪れる人のほとんどは、迂回して本堂に向かう道をとるため、その場所を見逃してしまう。そこは大体いつもひと気がないが、座るのにちょうどよい大きな石がたくさんあり、私は1980年代に家族と一緒によくそこへピクニックに出かけた。90年代には、そこは我家の犬を自由に駆け回らせるとびきりの場所だった。しかし、それほど頻繁に出かけてくつろぎながら、私が初めてある特別な仏塔に気づいたのは、2000年の秋、色鮮やかな柿の実に惹かれたときだった。

鳥たちが熟れた柿の実をつつき、半分食いちぎられた実が、五重塔の灰色の磚の上につぶれて散らばっていた。仏塔の正面に「第33代住持無初徳始禅師之塔」の銘がある。前面の風化した標示が興味深いものだった。私は、柿の木のもとに埋葬された僧正の身元を確認して仰天した。この僧は、実は日本人だったのだ。銘文にはこう記されている。

「明代(1368〜1644)初期に中国に来たこの僧の日本名は『無初徳始』といい、また修行僧時代は『終級』と呼ばれていた。彼は日本の、当時は信州と呼ばれていた現在の長野県出身であり、幼くして僧坊に入った」

無初徳始は、南京、四川、北京の高名な寺院の住持を勤めた。しかし1412年、彼が潭柘寺の住持に推挙されたのは、永楽帝の師であった姚広孝との面識によるものである。その他、彼に関しては「在任中、師は休むことなく寺院の建造修復に努め、1429年他界した。この塔は師のために建立したものである」という短い記録があるだけである。

彼の中国滞在は、足利幕府と明王朝との外交関係によるものであった。中国留学の後、日本に帰国した僧侶たちは、ほとんどの場合厚遇され、それぞれの寺院で指導的な地位についた。しかし帰国せず忘れ去られた者もまた多い。それにしても、明らかに中国において大いに尊敬され、仏教界の傑出した指導者となったこの人物について、日本の史書が全く言及していないのは不思議である。

塔の細部

この日本人僧は、また書家としても傑出していた。彼の書を刻んだ石碑を今も河南省の少林寺で見ることができる。石碑には1392年旧暦5月の日付があり、「扶桑の僧徳始」と記されている。「扶桑」とは古代日本を指す中国語であり、「日出ずる東方」という意味である。

無初徳始の業績は、日中関係初期の学術交流を示す好例である。彼は仏教団体、すなわち国境の無い国際組織の一員として中国に来た。そして学問の水準の高さと指導者としての力量によって、個人として中国において高い評価を受けた。彼は中国への危険な航海に挑んだだけではなく、言語、文化その他の障害を克服して、中国仏教界ヒエラルキーの最高位に昇り詰めたのである。

言うまでもなく、柿の木は尊師に対する献上として植えられたものであろう。柿は、彼の故郷長野でよく知られた木である。鳥たちも甘い実を少し落として、はるか昔に他界した聖職者に懐かしい味を捧げているらしい。

私は、この流浪の臨済宗禅師に日本のお茶を献上するのがふさわしいと考えた。2001年5月17日、仏教協会役員と共に、北京の数カ所の寺から何人かの僧侶が私に同行して下さった。私たちは北京裏千家茶道の師弟と共に、茶道友好野点会を開こうというのであった。私たちが静かに立つ傍らで、1人の僧が仏塔の前に恭しく天目茶碗を捧げてお経を唱えた後、基壇の周りにお茶を注いだ。死後570年、彼の霊は日本の茶の味を満喫したに違いない。翌年の柿はきっと以前にも増して甘かったことだろう!(訳・小池晴子)五洲伝播出版社の『古き北京との出会い』より(2005年10月号より)

 

 
 
     
 
筆者紹介
阿南・ヴァージニア・史代 1944年米国に生まれ、1970年日本国籍取得、正式名は阿南史代。外交官の夫、阿南惟茂氏(現駐中国日本大使)と2人の子どもと共に日本、パキスタン、オーストラリア、中国、米国に居住した。アジア学(東アジア史・地理学専攻)によって学士号・修士号取得。20余年にわたり北京全域の史跡、古い集落、老樹、聖地遺跡を調査し、写真に収めてきた。写真展への出品は日本、中国で8回におよぶ。
 

 
本社:中国北京西城区車公荘大街3号
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