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「准将」と名付けられた青檀 |
昌平区の檀峪村の上には珍しい1本の「青檀」が生えている。青檀の樹皮は、高級紙「宣紙」の材料としてよく知られているが、私は一目で、これは見たことのない樹だと思った。まだらの樹皮とウロのできた幹は、この樹の古さを語っていた。風変わりな穴やざらざらした表面が、太湖石に似ている部分もある。根は、太いつるのように広がり、流れ落ちる滝のように周囲の岩に波打っていた。
しわだらけの幹から出た新しい世代の樹が、竹のように勢いよく周囲に立っていた。これらの若い樹(と言ってもそのうちの何本かは恐らく500歳にはなるだろう)から、枝が四方に広がって、陽光を競い合っていた。若い樹が、お互いに連なる様が非常に印象深いため、この樹は「准将」と名付けられている。北京で2番目に高齢の樹と考えられているせいでもあろう。新しく出てきた幹は、あたかも一団の士官が、将官の周囲に集結したかに見える。しかし、この類まれな樹が1500年前なぜここに植えられたかは謎のままだ。
私は冬に再びそこを訪れてみた。葉が落ちていたため、樹皮の変色や剥落がいっそうはっきり見てとれた。老いた樹が若い樹を育むように枝を伸ばしている様は、あたかも母親の腕が子どもに向かって差し伸べられているかのようであった。私は背後の小山の上に小さなお堂を見つけた。たった1つのお堂は紅いお正月飾りをつけたばかりであった。
中に入った私は、荒削りで素朴な塑造の観音像と2体の脇侍に胸を打たれた。仏様たちは、皆明るい黄色の外衣をゆったりと垂らし、お供えの熟した柿と燃えさしの線香が、最近参拝者のあったことを物語っていた。これは正式のお堂ではなかったが、そこには自分より偉大なものの存在を信じて感謝の心を持つ者の、謙虚な祈りから生じる宗教的な深い霊気が満ちていた。
村に下りると83歳の姚景全さんが、知る限りのことを熱心に語ってくれた。真鍮ボタンのついた緑色の人民服に毛皮の帽子をかぶった姚さんは、最初に樹があり、村は後からできた、事実村の名は樹に由来していると言った。誰が植えたかは知らないが、種子は恐らく南方から来たものだろうとも言った。
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右から姚景全さん、長亮さん、春燕さん |
彼は自分のうちに来ておしゃべりしませんかと誘ってくれた。彼の家は中庭1つだけの質素な造りで、石と泥の塀に囲まれていた。しかし冬の陽射しが暖かく、私は居間で16歳になる孫娘の隣に座って熱いお湯を飲んだ。姚さんは帽子をとり、禿げた頭のてっぺんを光らせながら、「生まれてからずっと百姓だったよ」と言った。この村には固有のお祭はなく、8つの村が連帯して、北京より歴史が古いとされる和平寺で毎年お祭をしている。姚さんはそこにも非常に古い樹があると言った。
「この貴重な青檀の樹を切ろうなんて者はいないよ」。姚さんは続けて諺を引用した。「千年松、万年桧、信じられなきゃもっと長寿の槐に聞いてごらん」。さらに、「青檀はあの場所でしか育たない。育つには山の石と何か関係があるらしい。若い苗木を村の地面に植えようとしたが、みんな枯れてしまったよ」とつけ加えた。
孫娘の姚春燕さんが、昼食の後であたりを案内しましょうとぼそりと言った。彼女の言葉は非常に率直で飾り気がなく、その温かな申し出を断わるのは失礼だと思われた。50歳になる父親の姚長亮さんが食事の支度に帰ってきた。彼は羊飼いだが、驚いたことにあのお堂の3体の仏像を彫った当人だった。「わたしは無学だが信仰を持っています。自分の手で何かをして信心を示したいと思いました。夜しか彫れませんから、完成には1カ月ばかりもかかりましたよ」。
私はこんなふうにごく自然に羊飼い一家と昼食をとり、その親切なもてなしに胸が熱くなった。さらに私は、娘にいい教育を受けさせたいという姚さんの願いと、彼自身の宗教的献身に感動した。あの彫刻には心が通っていた。一家は貯蔵庫から出してきた冷たい柿をご馳走してくれた。青檀の樹を誰が植えたかは謎のままだったが、観音寺の背後にある、人の心を動かす力がどこから来るかは明らかだった。(訳・小池晴子)(2006年1月号より)
五洲伝播出版社の『古き北京との出会い』より
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