木と石と水が語る北京M  歴史学者 阿南・ヴァージニア・史代文・写真
石府村の石切り場
 
 
道端に転がっている石臼

 中国の古い格言に「山に生き、山を食す」というのがある。これはまさに上石府村(石景山区に位置する・編集部注)が何世紀もやってきたことだ。この村の石切り場は深く、広い。道端には村人の手になる製品・評判の「豆青石」で造った巨大な石臼がいくつも転がっている。

 「こいつは恐ろしく強い石だが、磨くと人肌の滑らかさが出る」と石工であり、かつ採石会社のボスでもある高雨雲さん(46歳)が指さした。「こいつは漢白玉石と違って繊細な彫刻には向いていない。いや、この豆青石はそのパワーで選ばれるのだ」と高さんは続けた。「わしらの石は800年も前に盧溝橋に使われた!」。彼の説明によると、最近の盧溝橋修理に際して、この石が発注されたという。「圧力のかかるアーチ部分の最も重要な個所を、この石が裏側から補強しているのが分かりますよ」。

 石切り場は村の東一キロばかりの所にある。私が石臼の写真を撮ろうとあたりをうろついていると、粗末な作業着を着たずんぐりした男性が出てきて、自分の工場の敷地内に外国人がいるのを見て驚いた。これが高さんだった。私は、この村の石造りの歴史に興味があるのだと言った。まさにドンピシャリの人物に聞いたことになる。高さんは私を事務所に招いた。彼は謙虚な人物だが、北京地域に造営された歴代首都の建造物に、この村の石が大いに貢献したことを誇りにしていた。

 彼はまた、建造物の再建の多くに協力していて、香山修復のための柱の基礎と階段の準備が進められていた。「清代の記録では、この村の石をとりわけ高く評価している」。代々の石工たちは、天壇の石段、市内随所にある庭園の橋、門トン(門扉の下の土台・編集部注)などを造った。こうして村は「石府」の名を与えられたのである。

 彼は、村人が「日本の井戸」と呼ぶ、占領中造られた井戸に私を連れて行った。当然、井戸の内側にはこの堅牢な石が使われていた。「北京の井戸石の95%は石府村の石だ」と高さんはきっぱり言った。石切り場では、作業員たちが山腹から大きな石材をせっせと運び出していた。彼らはダイナマイトを使わず、昔からの手法で注意深く石を切り出していた。「この石は汚染されていない。それに水分も吸収しない。だからこの石臼で挽いた穀物は香ばしいのです。中国全土から需要がありますよ」と彼は説明した。

村を見守る石堂

 私たちは翠微山の陰のうず高く積まれた岩の真ん中に立っていた。高さんは彼自身の先祖や、村人の先祖たちが切り開いた石切り場を見せてくれた。代々受け継がれてきた長い鉄のピックや棒が、岩の傍らにきちんと置いてあった。「あなたは間違いなくここを歩いた最初の外国人女性ですよ」と彼はにっこり笑いながら言った。そして道端の一部屋だけの小さな石堂について語ってくれた。

 はるか昔、35人ばかりの採石労働者が山懐深く掘っていると、一人の長い白ひげを垂らした老人が現れた。老人は彼らに、村で婚礼がある、行って披露宴に出席するがよいと勧めた。そこで皆は道具を置いて丘を下った。ところが村では誰一人婚礼の宴のことなど知らなかった。するとその時、雷のような轟音が聞こえ、山腹全体が陥没した。老人が実は山の神仙であったことを知って、村人は小さなお堂を建てて感謝の意を表し、この危険な仕事をひき続き守りたまえと祈った。今日まで、石切り場で命を落とした者はいない。山の仙人はまた、石府村の石に末永く需要のあることを約束してくれているようだ。(訳・小池晴子)(2006年2月号より)

 五洲伝播出版社の『古き北京との出会い』より


 
 
     
 
筆者紹介
阿南・ヴァージニア・史代 1944年米国に生まれ、1970年日本国籍取得、正式名は阿南史代。外交官の夫、阿南惟茂氏(現駐中国日本大使)と2人の子どもと共に日本、パキスタン、オーストラリア、中国、米国に居住した。アジア学(東アジア史・地理学専攻)によって学士号・修士号取得。20余年にわたり北京全域の史跡、古い集落、老樹、聖地遺跡を調査し、写真に収めてきた。写真展への出品は日本、中国で8回におよぶ。
 

 
本社:中国北京西城区車公荘大街3号
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