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樹齢500年を超すキササゲの樹 |
広化寺(北京市西城区)は北京仏教協会本部である。1996年の静かな春の宵、私がこの寺を訪れたとき、境内にはほんの数人の僧侶と参拝者が歩いているだけだった。中庭から中庭へと過ぎていくと、仏教古楽の調べが聞こえた。最奥の中庭に建つ2層造りの書庫を背に、樹齢500年を超すキササゲの樹が高々と茂っていた。
庭の一角にひっそりとあずまやがあり、牡丹の花が咲き乱れていた。ここはもと、今は亡き住持、修明尊師の住まいだった所である。私たちがお会いしたとき、住持はすでに91歳だったがかくしゃくとして、訪問者には、フランス語、英語、日本語で挨拶をしておられた。
北京の富裕な家庭に生まれ、若くして中国人留学生グループの一員としてフランスに渡り、リヨンで学んだ。一行の中には周恩来総理がいたし、1960年代に外交部長を勤めた陳毅元帥もいた。寝食を共にした12名の留学生の中で、後に政界に入らなかったのは自分だけだったと、師は言った。そしていたずらっぽくちらりと眼を光らせて、まだ生きているのもね、とつけ加えた。さらに「彼らは皆救国と改革に関心を持っていた」と続けた。しかし、修明尊師は仏教の思索の道を選んだ。
師の存在はいつも広化寺と結びつけられるが、常にこの寺に住めたわけではない。1950年代には労働者として働かされた時期があったし、文化大革命中にはここを立ち退かねばならなかった。そのとき寺院の書籍・典籍は前庭で7日間燃え続け、仏像は原型をとどめぬほどに破壊され、石碑はたたき壊された。門前の獅子の猛々しさも、紅衛兵を制することはできなかったようだ。最終的には軍隊がやって来て、残されたものを保護した。
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在りし日の修明尊師 |
修明尊師は1983年、広化寺が復興し始めたときに住持として戻ってきた。まっすぐな背筋と暖かだが確固とした眼差しは、深い眼識と自制と心の平安とを持つ人物のものであった。彼の人格は寺院の雰囲気全体に広がっていた。
近くに、やはり塀に囲まれた敷地がある。小さなお堂は、樹が1本あるだけの庭に面している。同じ日に私たちはそこで中国最後の宮廷宦官、孫耀庭さんに会った。彼は茶色の皮の上着に綿入れのズボンを穿き、部屋の隅に威儀を正して座っていた。彼は翌年98歳でなくなるまでそこに住んでいた。
孫さんの顔は滑らかだが黒ずみ、髪を刈株のように短くしていた。彼は私たちに気づいて眼を輝かせた。彼の注意を引くためには、「公公」と敬語を使って大声で叫ばなければならなかった。宦官を「宦官」と呼んではならず、「公公」と言うのが礼にかなった呼びかけである。こういう雰囲気の中では、「どこのご出身ですか?」というような至極単純明快な質問にとどめなければならない。彼は「私の故郷は河北省靖海県です」と言った。「清朝の宦官はほとんど、ここの出ですよ」「公公、故宮に来られたのはいつですか?」。彼は記憶をたどって、皇帝に仕えるようになったのは10代初めだったと言った。
清朝は間もなく倒れたが、彼は引き続き紫禁城の壁の内側で暮らした。彼の地位は「一汁四菜」と呼ばれた。つまりそれは食事の品数を意味し、「一汁四菜」はかなり高い地位を表していた。「それから溥儀について天津に行き、その後、長春がいわゆる『満州国』の首都になったときそこへ行きました」。東北に移ったのは1932年、彼が33歳のときだった。解放後、北京に帰り、彼は道教の道士になったが、それでも労働改造は避けられなかった。
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中国最後の宮廷宦官、孫耀庭さん |
1983年、孫さんの他、6人の宦官が広化寺に移り住み、全面的な庇護を受けた。彼は寺の年老いた使用人に面倒を見てもらい、昼間よく眠り夜になると起きていた。今は食事も質素で、もはや「一汁四菜」ではなかった!
10分ほどの会見の後、彼はその華奢だが、皺だらけの手を私たちに差し伸べて別れを告げた。外に出ると、窓際に座って暗い部屋から小さな中庭をのぞいている彼の顔が見えた。この光景は彼の人生を象徴しているかのようだった。現実という外界から切り離された壁の内側の人生を。
門の方へ戻りながら、私は大きなキササゲの樹の生命力にも敬意を表した。キササゲは釈迦生誕の日に合わせて花開こうとしていた。
(訳・小池晴子) 五洲伝播出版社の『古き北京との出会い』より(2006年4月号より)
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