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「薬王廟会」の様子 |
気温はすでに36度に達していたが、酷暑もなんのその、北京南西部の貧しい郊外で開かれた「薬王廟会」(祭)から人々は立ち去ろうとしなかった。大きな幟や紅い絹の提灯が、神社に続く看丹路の両側を飾っていた。この廟は漢方医学の父、孫思裙に捧げられたものである。一般には親しみをこめてただ「薬王」と呼ばれている。旧暦3月28日の彼の誕生日は、今年は5月半ばにあたった。鐘や太鼓や物売りの叫び声から察するに、祭はたけなわらしかった。
薬草採集家・孫思裙は、人々に厚く敬われた6世紀の漢方医術者であり、陝西省で100歳以上も生きた。その医術は伝説となり、歴代の皇帝も彼に健康を祈願したほどである。中国全土で3000以上の寺廟がこの薬王に捧げられた。
新中国成立後、これら地方の寺廟はそれまでとは異なる用途に使われた。ここ看丹路の薬王廟が伝統的な漢方医学診療所になったのは、まことに当を得ていた。前庭で薬草を栽培し、看護士たちが漢方薬を作ってガラス瓶に詰めていた。
中庭にいくつか置かれた大きな石碑は、あちこち欠けてはいたが、過去に行われた祭や修復の模様を伝えていた。しかし祭当日には、群集や屋台に隠れてほとんど見ることができない。
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石碑の台座に座り子どもに話しかける役者 |
1人の役者が亀の形をした石碑の台座に静かに座っていた。さらに多くの銘板が京劇舞台の後ろにきちんと並べられていた。銘板の多くは、この廟の行事を支えてきた昔の参詣団体(講)の記録であったが、この年経た石に眼を向ける者はなく、誰もが舞台に見入っていた。参詣団体の1つが獅子舞を踊っていた。
荒れた社殿を最近修復したことが、50年も途絶えていた薬王誕生祭を復活させたのである。土地の警官が入口で5元の入場券を売っていた。「拉洋片」(のぞきからくり)の語り手が、通りすがりの参詣者たちに、彼1人であやつる芝居を見ておいでよ、と呼びかけていた。1元出してのぞき穴をのぞくと、彼の語る古い中国民話に応じて絵が出てくるのである。
40代前半の王学智さんは灰色の中国服を着て、長い白い袖口をたくしあげていた。語りと同時に、彼は1本の紐を引いて鐘や太鼓を鳴らし、人々の気を引いていた。そうしながら、今日の演し物『八仙渡海』を大声で語った。群集に交じった年配者にはおなじみの物語だが、子どもたちは夢中になって、からくりをのぞく席を取ろうと押し合っていた。
人気の高いもう1つの語りは、薬王の長い生涯における数々の偉業にまつわるものであった。語りの1つは、こうである。
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『八仙渡海』を語る王学智さん |
薬王が薬草を探して山中をさまよっているとき、彼のロバが道にはぐれて虎に食われてしまった。薬王はかんかんに怒り、近くの虎を皆集めて誰がロバを食ったか問いただした。ついに1匹がこの卑しい行為を白状した。以来、この虎はロバに代わって生涯薬王の荷物を運ぶ羽目になった。こういう次第で、薬王に捧げられた寺には皆この伝説の虎の像がある。
王さんの巧みな話術が中庭に大きく響くなか、人々は真新しい薬王像と後殿の三官像に祈りを捧げていた。例の虎の物語も新装なった壁面に描かれていた。こうした賑わいのなか、2棟の配殿には大勢の医師や看護士が詰めて、3日間無料の医療相談を行なっていた。
中庭にいた1人の農婦が線香を焚き、健康祈願をしてから、やおら看護士に近づき背中の痛みを訴えた。さらに靴を脱いで具合の悪い足の部分を見せていた。彼女はお参りだけに全面的に頼っているわけではなさそうだった。薬王詣でも、決して単なる迷信と片づけるわけにはいかない。(2006年5月号より)
(訳・小池晴子) 五洲伝播出版社の『古き北京との出会い』より
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