木と石と水が語る北京 (21) 歴史学者 阿南・ヴァージニア・史代=文・写真
永定河の町と古道
 
 
龍王廟

  首都北京の西に位置する三家店はかつて石炭商人の町として知られていた。この小さな町は永定河が山の水源から流れ出て平原に注ぎ込む位置にあるため、しばしば気まぐれな河の災害に見舞われてきた。「旧市街」のメーンストリートは、河岸から始まりわずか2キロしかない。私が初めて訪れた1995年には、車輪の跡が泥道に深く残っていたが、最近舗装されたことで、長い歴史を持つこの町に昔日の体面が戻ってきた。

  道路沿いの家々には、美しい彫りのある扉をつけた柱廊式玄関があり、この小さな町の良き時代を語っている。かつては一大石炭集散地として150軒以上の富裕な石炭商人の家が建ち並び、200年以上も繁栄していた。石炭は門頭溝の山から出るいわば「金塊」であり、三家店の商人たちは石炭を北京へ運ぶ仲介人であった。

  この町は商業の中心地であっただけではなく、西の幹線道路を通って北京へ向かう旅人や参詣人たちの宿場町でもあった。小さな町だが寺廟もいくつかあり、参詣人たちは旅の途次にお参りをすることができた。今では参拝の地としては利用されていないが、それでも町の歴史の片鱗を残している。

三家店を流れる永定河

  この地区の住民委員会が「白衣観音庵」の中に事務所を構えていた。主任である中年の女性が錠のかかった門を開ける鍵を持って現れた。彼女が言うには、ここは1900年義和団蜂起の際、指導者の一人が隠れ家としていたという。「旧暦2月29日のお祭には、お寺の境内は参詣客でいっぱいでしたよ」。現在、本堂には「只生一個好」(一人っ子政策)のポスターが飾ってあった。子どもの守護仏である白衣観音にはきわめて似つかわしい。

  後庭の石碑には道路と近くの橋の修復について記してあった。1872年の「西山大路修復碑」には「ここは暖房・調理に要する石炭を北京に輸送する幹線である。昨年夏秋の豪雨による河川の氾濫で道路は30余カ所で寸断された。再建には多数町民の貢献があった」とある。氾濫によってあたりが湿地になると予想していたのであろう。道路沿いの家々はすべて用心深く土台を高くしてある。

 道路の西端、河と道とが交差する重要地点に龍王廟があり、たびたび膨れ上がり激昂する河の霊を数世紀にわたって鎮めてきた。中庭一つだけの小さな境内だが、屋根の上の守護龍、壮大な老樹、二重の門など、一目でこの廟が別格であったことがわかる。私は隣家の庭を通って裏から入り、門番がお堂の中に入れてくれるまで待った。

お堂のなかに祭られている龍王像

 中には五体の龍王像があり、それぞれ五行すなわち水、火、木、金、土の五大要素を表していた。壁画には龍王とその兄弟にまつわる伝説が描かれて、二つの石碑は、この廟は住民が豊かな生活を送るためになくてはならないと強調していた。私は門番にこの廟と立像が、どのように激動の歴史を生き抜いたのかを尋ねた。彼は、「ここには百年以上、この地区の治水管理機構本部が置かれていました」と答えた。

 三家店は豊かな史跡を持つ町であり、もっと注目されてしかるべきだ。私は、将来優れた都市計画家が出て、堂々たる商人の四合院を修復し、貴重な樹木を保護し、寺社を開き、三家店古道を歴史散歩道にして欲しいと願っている。河のことなら心配ご無用、5匹の龍が今も町を守っているのだから!(2006年9月号より)

 (訳・小池晴子) 五洲伝播出版社の『古き北京との出会い』より

 
 
     
 
筆者紹介
阿南・ヴァージニア・史代 1944年米国に生まれ、1970年日本国籍取得、正式名は阿南史代。外交官の夫、阿南惟茂氏(前駐中国日本大使)と2人の子どもと共に日本、パキスタン、オーストラリア、中国、米国に居住した。アジア学(東アジア史・地理学専攻)によって学士号・修士号取得。20余年にわたり北京全域の史跡、古い集落、老樹、聖地遺跡を調査し、写真に収めてきた。写真展への出品は日本、中国で8回におよぶ。
 

 
本社:中国北京西城区車公荘大街3号
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