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琉球使節が友好の印として植えた海棠 |
琉球列島、すなわち現在の日本の沖縄県は、古い時代、東アジアおよび東南アジアと活発に交易し、例えば中国の生糸と日本の刀剣といった品々が、琉球商人の仲介で交換されていた。九州南部の島津藩の統治下にあったときでさえ、琉球王国は中国と通商関係を続けていた。
中国と国境を接する国々は、貢物を携えた使節を中国に送る慣例があり、これは中国外交の一般的な作法であった。14世紀以来500年間、琉球王と中国皇帝の間にはこの属国関係が存在していて、琉球使節たちは朝貢訪問の傍ら、高価な中国の絹を日本に持ち帰った。
18世紀後期、中国の首都を訪れた朝貢使節たちは、清朝政府が市の南部に建てた宿舎に滞在した。この宿舎「会同館」は実際上、50年以上にわたって清朝朝廷の国賓館であった。南横街という名の狭い路地に建てられた国賓館は、琉球使節たちが滞在した当時のまま手をつけずに残されている。
紫禁城に近い外国高官用邸宅が手狭になったとき、清朝政府は皇城外を物色して、明朝初期からの「兵馬司」を召しあげ、公賓用に改修した。私が2001年に訪れたとき、2棟の母屋とそれに付属する多数の建物がまだ残っていた。
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屋敷でさまざまな役割を務めてきた宋樹沢さん |
宋樹沢さんはこの屋敷内で50年以上、あれやこれやの役割を務めてきた。彼の説明によると、清代には琉球、ビルマ、韓国、ベトナムからの使節団は皆ここに滞在したという。20世紀に入ると日本の軍事警察、さらに国民党軍がこの場所を占拠し、1949年以後は食料配給センターであった。宋さんは国賓館時代からの正門を記憶していたが、それは1970年代に取り壊されたという。「食料配達用のトラックが出入りできるようにしたのですよ」と彼は言った。
建築は近隣の庶民の家々より格段に立派である。「この建物にお入りなさい」と宋さんは私を招き入れてくれた。いまも木製パネルが壁の一面全体を優雅に飾っていて、一番上には精巧な花と魚の図柄の彫物が交じり合っていた。宋さんが言った。「ここが琉球使節団の泊まった部屋ですよ!」
宋さんは植物、特にバラの手入れをして日を過ごしていた。しかし彼は、四つの中庭を優雅に飾る樹木をとりわけ誇りとしていた。「春になると、近所の人たちがゆったりと花盛りの果樹を楽しんでいますよ」。宋さんは桑、柿、イチョウ、梨、海棠を指さして言った。優に500歳にはなる巨大な槐の樹が正面の建物を見下ろし、その厚い繁みは陽射しをほとんど遮っていた。
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正面の建物を見下ろす巨大な槐の樹 |
小さな西の庭には、蓮の模様をつけたアンティークの水槽が、並外れて大きな海棠の下に放り出されていた。秋にはたわわに実をつけますよ、と宋さんが言った。何より重要なのは、この樹は琉球使節団がここに滞在していたとき、彼らの手で植えられたらしい、ということだ。
「もしこの場所を修復しようというのなら、まずコンクリートの舗装をはがしてもとの石だたみの道をよみがえらせるべきです」と宋さんは言った。彼によると、道路拡張の噂があり、これらの樹々の何本かは遠からず無くなる運命にある。そうなると、200年前、琉球使節が友好の印として植えた海棠も長くは生き延びられないだろう。(2006年10月号より)
(訳・小池晴子) 五洲伝播出版社の『古き北京との出会い』より
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