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張先得さんが描いた蟠桃宮の絵 |
3月3日は、日本では「桃の節句・ひな祭」として祝われる。しかし、中国ではこの祭の起源ははっきりしない。というのは、この祭りは旧暦3月の3日目となっていて、新暦3月3日とは異なるからである。実のところ、中国ではもはやこれは全く祝われず、代わって3月8日の「国際婦人デー」が、重要な女性の祝日となっている。
以前は、北京城壁のすぐ外で、道教神仙「西王母」の祭日を祝って、大きな市が開かれていた。現在、北京の東南隅を示す大きな隅櫓と明代城壁の一部がその地点に残っている。近くには堀があり、かつては東に流れて通州区の大運河に至る水路とつながっていた。
1980年代には、この隅櫓の向かい側に崩れかかった小さな廟が、まだ建っていた。石碑の碑文から、それが「蟠桃宮」であることが読みとれた。一つの石に一字ずつ「蟠、桃、聖、會」と書かれた石板が、建物の正面に並んでいた。もう一つの標識には、これが保護文化財であることが示されていた。小さな廟だが、そこが西王母信仰の中心地であった。
しかし私が訪ねたとき、そこはれんがを積んだ掘っ立て小屋で埋まっていた。近くのガラス工場から来た数家族が、中庭を囲む二つのお堂に住みついていた。「わしらの祭りは北京中で有名だったよ。あらゆる所から人が来てたね。だが蟠桃宮は無くなっちまった」と一人の白内障の老人が嘆いた。
この女神は中国西方の崑崙山脈に住むと考えられていた。伝説によると、そこには大きな桃の樹があり、その枝は数千キロ先まで延びていて、西王母は勝手気ままに桃をちぎることができた。桃は道教では不死の象徴であり、西王母は女性の生命力の源である。年に一度の特別の日に、天上の神仙はこぞって彼女の宮殿に赴き、荘重な祝宴が催されたという。
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北京の城楼と城門を描き続けてきた張先得さん |
この小さな廟で北京有数の祭りの一つが行われていたとは想像もできない。旧暦3月の初めの3日間、娘たちは「蟠」と呼ばれる髪形、つまり髪を独特の平たい「蟠桃」の形にくるくると結いあげ、結婚適齢期であることを示した。祭りは、長寿を願う高齢の女性たちにも人気があった。またこの廟は、ときには女性たちの駆込み寺ともなった。
現在では、大きな石碑が一つ、隅櫓の向かいに立っているだけである。私が張先得さんに出会ったのは、廟にまつわる記憶はすべて消え去ってしまったと感じた、まさにその時であった。張さんは文化財学者であり、また画家でもある。過去50年間、北京の歴史的城壁の、今となってはほとんど幻と化した城楼と城門とを、水彩で描き続けてきた。「壁のどこそこが潰されるとか、どこそこの門が取り壊されると耳にするたびに、わたしは画帳をつかんで駆けつけ、最後の姿を画紙の上にとどめました」と張さんは回想した。
自分のアパートのテーブルに向かって、彼は次から次へと絵を見せてくれた。私が、なぜ城門を描くことを思いたったのですかと問うと、張さんは、地安門のそばで生まれたからです、と答えた。「わたしの家は門の隣でした。1954年、その門が取り壊されたときのことをよく覚えています」。絵の一枚一枚が、過ぎ去った北京の昔を物語っていた。
私は、北京東南隅の辺りのことを、なにかご存知ですかと尋ねてみた。「昔の蟠桃宮の辺りですか?」と彼が問い返したとき、私には、彼が語るべき物語を持っていることが分かった。「ほら、陸橋のそば、亀の背中に乗っているあの大きな石碑、あそこはもともとの場所ではないのですよ。新しい道路を通すときに西に移動させたのです。1950年代には廟の門は自転車修理店でしたから、よく覚えています」と張さんは語った。
蟠桃宮の絵を取り上げて、彼は言った。「ここの祭りで最高だったのは小吃(軽食)でしたね。水路の両側に食べ物の屋台がずらりと並んでいました」。 西王母の廟はとうの昔に無くなってしまった。しかし、その伝統は日本の3月3日「ひな祭」と、張さんの絵の中に今も生き続けている。
(訳・小池晴子) (2006年11月号より)
五洲伝播出版社の『古き北京との出会い』より
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