【上海スクランブル】

篆刻工房を訪ねて
                                    須藤みか
                 
磨く
描く
刻む
完成
 上海一の目抜き通り、南京東路に上海長江刻字廠の篆刻工房はある。

 太陽光で職人の手元が狂うのを防ぐため、天井まで続く大きな窓はすべて新聞紙で覆われている。陽に焼けた新聞紙が外の喧噪を遮断するかのように、薄暗い工房にはゆっくりと時間が刻まれていた。何十年も使い込まれてきた机や彫刻刀、工具も、しっくりくる。

 篆刻は、文字とその配置による結合美を彫刻で表現する中国古来からの伝統工芸である。最近は、経済の発展とともに、篆刻にも近代化、機械化の波が押し寄せているというが、この工房では大半が職人の手仕事によるものだ。

 古くは、銅や玉が印材として使われたが、硬い材質のために制作には大変な手間暇がかかった。やがて元代末期となり、画家の王冕が花乳石に自ら彫刻した印章を用い始めると、その文字の美しさや自身の感覚を表現できる妙が、当時の文人たちに瞬く間に広まっていく。

 七百年近い歴史のなかで、多くの流派が生まれ、その技は代々受け継がれてきた。

 「工房によって、多少篆刻の方法は違ってきます。文字の図案を紙に書き、拓本する方法もありますが、うちでは直接印面に書き込む方法を採用しています」(工場長の楊方さん)
 篆刻は、「磨(印面を平らに磨く)」「描字(文字の図案を印面に書く)」「刻字(図案に沿って彫る)」…の順で、仕事は進められる。

 職人はみなもちろん全工程をこなせるが、得意不得意もあるため、一つの印鑑を3、4人の流れ作業で作る。簡単な素材であれば30分、象牙や瑪瑙、翡翠などでも45分で出来上がる。

 手先を使う仕事だけに、日常生活のなかでも重い物は持たない。特に、小さな印面に細い筆で文字の図案を描かねばならない「描字」の職人は、男性も家事をするのが当たり前の中国だが、手のぶれを防ぐため包丁を持つことさえないという。

 この工房は50余年前、上海で最初にできた印鑑会社で、多くの職人を輩出してきたが、今は工房よりもショップ「集雲閣」の名が内外に聞こえている。

 店内には、赤色が美しい鶏血石やほとんど採掘されなくなった田黄など、さまざまな印材が並ぶ。価格も石材の数十元から、田黄の2万8000元まで幅広い。象牙や高山石などの持ち手には、鳥かごの鳥など精緻な細工が施されており、印材選びだけでも迷うほどに、美しい。

 しかし最近は、企業からのゴム印などの発注が多くなり、職人が腕を揮う機会も次第に減っている。というのも、水墨画などの伝統的な画家や書家、趣味人を除けば、印鑑を使う場面はほとんどないからだ。

 「磨」の工程を担当し、現場全体を監督する厳衍明さんは「私たちでさえ、印鑑を持ちませんから」と苦笑する。印鑑は、自身が使う物から外国に移住する友人や外国人への贈答品へと変化している。

 職人の後継者もいなくなっている。

 「かつては社内に専門学校がありまして、職人はみな3年間篆刻についてみっちり学んだ後、工房に入ったものです。ここにいる職人たちも、そこの卒業生です。しかし、入学希望者が少なくなり、学校はとうとう八年前に閉校しました。工賃は安いし、わざわざ職人になろうなんていう若者はいません」と、厳さんは寂しそうに言う。

 残っている職人はみな、40歳を超えた。職人に見切りをつけて、転職していった人も多い。職人たちは、「私たちは篆刻しか能がないから、転職の仕様がないんだ」と自嘲気味だが、好きだから続けているのでしょうと問うと、笑顔が広がった。

 彼らの手がけた印鑑は、世界のさまざな国に散らばっている。中国を旅した人々は印鑑を見るたびに、この国の文化や歴史に思いを馳せているのではないだろうか。

 篆刻職人の技は、そんな世界の人々の中で生き続けていく。(2002年1月号より)

[筆者略歴] 日本での出版社勤務後、留学。北京週報社・日本人文教専家を経て、現在、復旦大学大学院生