【上海スクランブル】


中国を教えてくれたお兄さん……

                    文・写真 須藤みか


 パンパンパーン。冬至を前にした12月の中旬の週末、澄んだ冬空に爆竹の音が響いた。ここは上海から車で小一時間の郊外にある墓苑、オープンを目前にひかえたF1サーキット場が近くに見える。2年前に亡くなった友人の納骨式を執り行うというので、家族・親族総勢三十余名と貸切バスに揺られてやってきた。

友人の友人はもちろん友人

鶏の丸焼き、豚の煮込み、紹興酒など故人の好物を墓前に

 陳さんとの出会いは5年ほど前。友人の紹介で、上海に来て間もなくのことだった。日本滞在経験があり、東京は新宿のつぶれかけていた中華レストランの助っ人として、行列店にまでしたことがあるという、根っからの料理人。会ったばかりの頃は、自分のラーメン屋を構えた直後で張り切っていた。

 1メートル78センチ、百キロ近い巨漢で、角刈り。一見どころか、どう見てもこわもてなのだが、ブロークンな日本語を話し出すと、途端にカワイくなる。

 友人の友人は、もちろん友人。会ったその日から、ずいぶん気にかけてくれた。二度目に会ったのは、中秋節を2、3日後に控えた週末。月餅を持ってラーメン屋をのぞいたら、「これからは気を遣わないで。また何か持ってきたら怒るよ」。隣で奥さんも「家族なんだからね」と優しく言う。まだ二度しか会ってないのに、家族? その口ぶりに驚いたが、その後の彼ら一家のもてなしは素朴だが、とても温かいものだった。

 春節を迎える前日。年末番組を見ながら、今か今かと時間を待ち、初めて自分の手で爆竹を鳴らしたのも、陳さんの家だった。翌年の中秋節からは家族の夕食の席に呼ばれるようになった。待ち合わせのレストランに行くと、10人がけの丸テーブル三卓分の家族がいた。「この人はボクのお母さんのお兄さんの子供。この人はボクの双子のお兄さんの娘…」。次々に紹介されて、頭の中はこんぐらかるばかりだった。防腐剤の入っていない本物の紹興酒を味わってやみつきになったのも、火鍋の辛さにハマったのも、陳さんという案内人がいたからだ。

投資話が次から次へ一緒に夢を見る

納骨が終り、紙銭を焼き、線香をたく。3度の礼をして祈りを捧げる

 しかし、思いついたら即行動という突発的性格には振り回された。

 「今度ね、喫茶店をやろうと思って。物件も探してあるよ」

 什器の資料が欲しいというので、電話帳ぐらいの分厚いカタログを探して日本から持ち帰った途端に、喫茶店計画は無くなっていた。次の思いつきは、若者の街での立ち食いスタンド。賃貸契約も済んでないのに、夢は広がる。店員には揃いのバンダナをさせたいと言うので、日本で大量に買ったが、この話も露と消えた。


 「中国人はね、すぐお金儲からないとイヤでしょ。ポップコーンみたいね、すぐポンって出てくるのが好きね。目が短い。でも、大きく儲けたいなら、それじゃダメ」

 ちなみに陳語録では、「目が短い」とは「長い目で見る」の反対語。そう言う本人こそ目が短かったりするのだが、次から次へと沸きあがる新店舗計画や投資話に、つきあいだした当初はめまいがしそうだった私もそのうち、一緒に夢を見ているようで楽しかった。

 時に、こちらの都合も考えない強引さには疲れることもあったが、それも友人の証だった。そんなパワフルで、いるだけで皆を元気にさせた陳さんが、病に倒れた。病室でもひっきりなしに携帯電話をかけていたが、そのうち車椅子なしでは動けなくなった。大きな体は見舞いに行くたびに小さくなり、ガハハという笑い声は笑みだけに変わった。ガンの再発だった。北京から有名な漢方医を呼んだり、いい病院があると聞いては何度も転院したが、進行が早くて手の施しようがなかった。享年46歳。

 「ボクは上海のお兄さんだからね」。そう言ってくれた彼からは、かけがえのないものを受け取った。中国人とは、中国社会とは何たるものか、身をもって見せてくれた。参列することがあるとは思わなかった中国のお葬式も、清明節のお参りも、そして、湿っぽさのない明るい納骨式も。陳さんが教えてくれることになった。

 陳さん、あなたには教わることばかり。やっぱり、あなたは私の大切な上海のお兄さんです。2004年2月号より