【清風茶話 (1)】


お茶の縁 ふたたび

                        日本在住中国人作家 キン飛


  《プロフィール》
チン・フェイ。北京生まれ。中学教師、記者、編集を経験後、94都市東京へ移駐。朝日文化センター、東京大学などにて教鞭を取り、80年代末、文筆活動を始める。エッセイ集『風月無辺』『桜雪盛世』『北京記憶』など著書多数(中国語)。北京作家協会会員。

 三百年以上前、中国の明朝は、国内の農民蜂起軍と北方遊牧民の満州族軍から攻撃を受けた。儒学者・朱之瑜(日本では号の舜水が有名、浙江省余姚出身、1600〜82)は、明朝が存亡の機にあったころ、単身海外を奔走し、日本や東南アジア諸国に援軍を求めた。しかし彼の願いもむなしく、満州族が明朝を倒して清朝を打ち立てた。そして彼は、故国に帰ることすら叶わなくなった。時は流れ、60歳を過ぎたころ、水戸徳川家のお抱え儒学者となった。その後約20年間、日本で中国儒学を教え、没後には、水戸徳川家の墓地に葬られた。

 私は、彼の文集をめくっていて、いままで誰も注目しなかったエピソードを見つけた。それは、お茶好きの朱が、日本で中国茶を飲むのに苦労した記録だ。――ちなみに、大庭脩氏による『江戸時代の日中秘話』を読めば、当時の日本が中国茶をほとんど輸入していなかったことがわかる。

朱之瑜の肖像画(名古
屋市徳川美術館蔵)。

 まずは、彼と弟子の小宅生順による以下のような問答を引用してみよう。


 小宅 中国の煎茶の歴史は長いですね。唐代の陸羽(『茶経』の著者で、茶神と呼ばれた)、盧ルレ(詩人)は、煎茶に関する詩を残しています。宋代になると、今度は点茶に関する詩が登場します。この「煎」と「点」の違いは何ですか。

 朱 宋代以降は、ずっと点茶の方法を用いるようになりました。点茶とは、すなわち、熱湯の中に冷水を入れる喫茶法です。沸騰したばかりの熱湯は、お茶そのものの味を損ないやすいため、まず、数さじの冷水を熱湯に加え、それから茶葉を入れます。こうすることで、お茶のおいしさを保つことができます。一方煎茶は、別の喫茶法です。例えば、六安茶などの場合、ある程度長時間煮て、ようやく茶葉の味を完全に湯に溶け込ませることができます。しかし、普段人々は、煎茶と点茶という言葉をごちゃ混ぜに使っていて、二つの意味の違いを気にしてはいません。

 小宅 では、淪茶の「淪」とは何を意味するのですか。それに、師匠がおっしゃった「六安」とは何を指すのですか。

 朱 淪とは、浸けるの意味です。浸けるとはどういうことかと言えば、まず湯飲みに半分だけ熱湯を注ぎ、それから茶葉を入れ、最後に熱湯を満たすことです。六安は安徽省の地名です。六安産の茶葉は良質で、六安茶と名づけられました。この茶は、消化、油分分解を促進しますが、長時間煮ることで、ようやくこのような効果が現れます。


 以上のような問答から、小宅のような当時の日本人は、基本的に文字から中国茶を理解していたことがわかる。当時の人は、唐や宋の詩に精通していたが、中国茶を飲んだ経験は、はなはだ少なかった。一方朱之瑜は、中国の喫茶方法や中国茶の品種による特性などを非常によく理解している。このことから、彼が喫茶愛好家だと言えない理由があるだろうか。

 現代に生きる私たちは、朱の文集から、彼がお茶好きだというもう一つの証拠もみつけられる。彼はしばしば、友達から中国茶を手に入れていて、しかも、時には人に頼んで中国から茶葉を取り寄せていた。そして、中国茶を手に入れると、喜んですぐに飲み、同時に中国茶に興味を持っている日本の友達にも分けていた。面白いことに、友達によっては、分けてもらった茶葉がなくなってから、もう一度味わってみたいと、朱宛に手紙を送っていることだ。ところが、その頃には朱の茶筒も底が見えていたので、彼は次回中国茶を手に入れた時に、希望に沿えるようにしようと返信するしかなかった。

 このようなことから、私たちは、朱が自分の祖国を思う気持ちを中国茶に転化していたと想像することができる。小生もそのような感覚でお茶をたしなんでいるため、彼の文章には感動させられた。

茶道裏千家の101回目の訪中の際、天津市の茶芸館「双泉名茶園」の韓国慶社長(右から2人目)が、茶道裏千家の東宮宗洋先生(左から2人目)に「広結茶縁」の書を贈った

 当然、日本の茶種は、当初中国から伝わり、中国の唐、宋の喫茶文化の影響を受けている。しかしこのことは、中日喫茶文化が、同じ発展過程をたどってきたことは意味しない。極端な言い方をすれば、日本の喫茶文化は、長い間、中国の喫茶文化の影響がまったく及ばない場所で、独自の完璧さを求め続けていた。そして、朱之瑜の時代よりさらにさかのぼるが、千利休(1521〜91)が日本独特の「茶道」を作り上げ、日本の喫茶文化の独立性を確立した。これはちょうど、中国と日本では同じ漢字を使いながら、具体的な発音や筆法などの用法に数多くの違いがあるのと似ている。その上、中国の喫茶文化は、日本で茶道の原型が出来始めていた元代以降にも大きく変化し、朱が生きた時代には、中日喫茶文化は、実質上、かなりかけ離れたものになっていた。そのため朱は、両国の喫茶文化交流史上、唐や宋の伝統を継承し、近代の交流に役立てる重要な役割を果たした。

 二千年もの間、捨て置かれていた歴史に注目することで、私たちは改めて、ここ数十年間の中日交流の発展に伴い、中日の喫茶文化が、唐、宋のころと似た活発な交流時代に入ったことに気付く。

 その先陣となったのは、ウーロン茶を代表とする中国茶である。いまでは、中国の緑茶やジャスミンティーも日本市場に進出し始め、中国茶を好む日本人はさらに増えている。私は幸運にもこの時代に生まれたため、日本にいながら、いつでも中国茶を買うことができ、朱の当時のような苦悩は味わっていない。

 日本の茶道も、様々な交流を通して、中国人によく知られている。2001年6月、茶道裏千家は、記念すべき百回目の訪中を実現し、中国の江沢民国家主席と会見する機会にも恵まれた。そして私が誇りに思うのは、茶道裏千家の101回目の訪中に同行できたことだ。

 私は、国際交流基金が派遣した日本古典文化芸術訪中使節団の事務局長として、香道直心流、華道草月流、茶道裏千家の方々とともに、2001年秋に、北京、天津、広州、上海の四都市を訪問した。この年は朱之瑜逝去319周年、千利休逝去410周年だった。

 訪問した四都市の中国茶芸館では、どこでも温かいもてなしを受けた。茶芸館は、ここ数年で急速に店舗数を増やし、いまではかなり大きな市場を作りあげている。茶芸館は、中国の伝統的な喫茶文化を継承しているだけでなく、南方の工夫茶(広東省や福建省南部、台湾などに普及している喫茶法)を基礎として、日本の茶道の作法を取り入れていて、さらに明確に現代中国の時代特色も息づいている。私が特に印象深かったのは、北京市亜運村の「碧露軒」と天津市の「双泉名茶園」という茶芸館である。

 「碧露軒」では、高級中国銘茶である碧螺春を味わった。長い間、北京の人は緑茶をほとんどたしなまず、江南(長江以南)地方の緑茶の最高級品が北京に運ばれてくることはまれだった。私はちょうど風邪をひいていたので、のどがかすれていた。しかし碧螺春を一杯飲み干したところ、すぐにのどがすっきりした。私はびっくりして、店の主人にお茶の由来を聞いてみた。主人によると、そのお茶は産地から特別に取り寄せた極上品で、北京では碧露軒のみが扱っていて、毎年、15キロだけ買い付けるとのことだった。「北京市民は、いまではこのような口福(ごちそうにありつける運)もあるんだなあ」と感慨深く、北京の人たちの喫茶習慣が今まさに変化していると実感した。

 天津の「双泉名茶園」では、近くにある寺院の湧き水を使っている。店舗の内装は落ち着きがあり、お茶を楽しみながら、書画と音楽鑑賞もでき、文化人が集うのに最適な環境が整っている。もてなし好きな店の主人は、私たち使節団への贈り物として、一副の書を準備してくれていた。そこには、「広結茶縁」の四文字が書かれていた。

 私たちが足を運んだ茶芸館では、どこでも日本の茶道との交流を深めていきたいとの声があがった。中日が唐、宋のころに結んだ「茶縁」を思い返すと、千年にわたる独自の発展を遂げたが、いま、改めて融合の時代に入ろうとしている。

「山川異域、風月同天(山川は隔てていても、同じ空の下に暮らす)」

 私は、長い歴史を超えて、語り継がれてきたこの名言を思い出さずにはいられない。(2002年1月号より)