【清風茶話(7)】


「忙中閑」と「不動心」

                        日本在住中国人作家 キン飛


  《プロフィール》
チン・フェイ。北京生まれ。中学教師、記者、編集を経験後、94都市東京へ移駐。朝日文化センター、東京大学などにて教鞭を取り、80年代末、文筆活動を始める。エッセイ集『風月無辺』『桜雪盛世』『北京記憶』など著書多数(中国語)。北京作家協会会員。

 京都の金閣寺で、おもしろいことに、偶然にも耳かきを見つけた。古くて素朴な竹筒の中に、二本の竹製の耳かきがあり、竹筒には、筆で「忙中閑」の三文字が書かれていた。また、金閣寺境内の簡素な茶室には、「不動心」という横額が掛けてあった。

 一部の人にとって、きらびやかな金閣寺は、俗っぽい存在に映るだろう。しかし、「忙中閑」と「不動心」の六文字は、金閣寺のそんな光り輝くイメージを帳消しにしている。

茶館でお茶を楽しみ、民間芸能を聴く

 実は、茶の道こそが、「忙中閑」ではないだろうか。私は今年、まだ一日も休みを取っていない。それでも持ちこたえられるのは、一に若いこと、二に茶とタバコの効能だろう。歳についての説明は必要はなく、タバコは、今日の社会では奨励されていないから、取り上げるべき内容ではないだろう。近年私は、お香にも興味を持つようになった。香道直心流の家元・松崎雨香さんが気に掛けてくださり、香道の席にしばしば招待してくださったおかげで、私の新しいリラックス方法になった。

 それでも、一番長く触れていて、もっとも頼りにしているのは、やっぱりお茶だ。私は、毎朝起床してすぐにお茶を飲む習慣がある。その時には、まだ完全には夢から覚めておらず、集中力も高まっていないため、お茶を点てることで、心を落ち着かせる。

 お茶を点てるには、湯を沸かす、茶具を洗う、茶葉を洗うなどの手順がある。私は、この流れの中で、徐々に頭がすっきりしてくる。そして、小さな急須一杯分のお茶を飲み干した頃に、血液中の水分が増加して血液が薄くなり、循環がよくなる。同時に、茶葉の各種成分が体に作用し始め、短時間で精神が活発になる。

 長期間にわたってこのような習慣が身についたため、自分自身への一種の暗示作用まであり、私の睡眠と覚醒の世界は、急須の茶によって隔てられている。もし茶を飲まなければ、一日中元気が出ない。もし徹夜して、翌日も連続して仕事をする場合、お茶の助けはさらに重要になる。仮に、禁煙しなくてはならなくなっても、お茶はどうしても止められない。お茶は仕事にも良い影響を与えるのだから。

急須に3回に分けて注ぐことで、客人への尊敬を表す

 こう言うと、いかにも功利主義だと思われるだろう。私自身、そのような印象を持っている。現代社会の弊害の一つは、人の物化である。私は、自分が仕事ロボットになることをまったく望んではおらず、茶をロボットの潤滑油にはしたくない。このような不幸から逃れるため、私は、起床後の茶のほかに、たびたびお茶を純粋に楽しむための喫茶タイムを作っている。

 喫茶には、自宅と外出時の二つの方法がある。

 自宅の家庭的雰囲気の中では、非常に落ち着けるため、喫茶の方法は、煩雑であればあるほど良いと考えている。私は多くの茶具を持っていて、その日の気持ち、天気、茶の種類によって使い分けている。茶具と言えば、こんなことがあった。

 私がまだ北京で暮らしていた頃、偶然にも、急須だけが欠けているお盆と湯飲み茶碗数個の茶具セットを手に入れた。茶具が作られたのは中華民国初年で、それほど古くはなかった。しかし、袁世凱が皇帝として特別に作らせた貴重なものだった。袁が定めた年号は「洪憲」で、これらの陶磁器も「洪憲磁」と呼ばれている。おかしいのは、袁が皇帝になる夢は、すぐに破れてしまい、洪憲王朝は成立しなかった。その代わりに、陶磁器のみが流通している。「洪憲磁」の数量は非常に少なく、手に入れるのが難しいため、私は完全ではないながらも、その茶具セットを自慢にしていた。と同時に、完全ではないことを残念に思っていた。

 しかし私が東京に移住した後、思いがけなく、妻の実家の倉庫にしまわれていた古い急須を見つけた。それは、祖父で日本の有名な中国研究家だった波多野乾一が、1920年代に中国から持ち帰ったものだった。そう、その急須は「洪憲磁」で、偶然にも、私の茶具の図柄と完全に同じものだった。思ってもみなかった喜びだった! この洪憲の茶具セットはいま、私たちの家宝になった。今後使うことはないが、しばしば取り出して眺めて楽しんでいる。

 自宅で喫茶を楽しむ方法について続けよう。適切な茶具のほか、できる限り、おいしい水を準備する必要がある。面倒だからといって、決して電気ポットのお湯を使ってはいけない。なぜなら、新鮮ではなく、他の味がついてしまうからだ。銅製または陶磁器製のヤカンで湯を沸かせば理想的だ。

 こうは言っても、昔の人と比較すれば、喫茶はとても簡略化された。陸羽は『茶経』に、喫茶の道具は、10〜20種類あると書いている。家庭で茶をたしなむのは、人に見せるのではなく、自分がのんびりと楽しむためである。一種の精神世界の生活に近づくものだとも言える。これこそがいわゆる「忙中閑」だろう。しかし、のんびり楽しむことも、結局は、あたふたとすることになる。なぜなら、忙しい生活があるのに、その茶を楽しむ時間は、短縮できないのだから。

 さて、外出時の喫茶では、主に良質の茶葉を見つけて飲む。現在、中国各地に茶館が増えた。これらの茶館は、四つの基準で分類できる。第1に、貴重な茶を味わえるか。第2に、専用の水を用意しているか。第3に、サービス担当が温厚で茶の知識が豊富か。第4に、茶館内が落ち着ける雰囲気か。

お茶をすすめる

 これらの中で、もっとも重要なのは、貴重な茶を味わえるかどうかだ。私たちには、時間を掛けておいしいお茶を探す時間はとてもない。代わりに探してくれるのが茶館だ。私は旅先では、必ず当地の茶を賞味してみる。そこから土地の自然環境を思い、同時に、至るところで天下の名茶を味わいたいと考えている。もしある土地に生活すれば、そこの茶館で数種類の名茶を楽しみ、世界制覇をしたような感慨にひたれる。

 自宅でも外出時でも、喫茶の際には、茶の味と雰囲気を深く味わいたいもので、静かな心は、もっとも大切なものだと思う。静かな心とは、すなわち専心である。喫茶以外には何も考えない、「不動心」である。杜甫の『飲中八仙歌』には、「天子呼来不上船、自称臣是酒中仙」(大意…皇帝が船に乗りなさいと呼んでいるが、乗らないことにした。自分は酒飲みの仙人であるから、と)とある。彼が取り上げたのは酒の「不動心」だが、どうして、茶に当てはまらないと言えるだろうか?(2002年8月号より)